「通り魔+ソシオパス」 全体対象関係と部分対象関係
今、世間では大阪で中一の二人の少年・少女が殺害された事件が連日報道されています。とても残酷なインパクトの強い事件ですし、二人の無邪気な少年・少女たちが無残に殺されてしまった、とても悲しい事件です。
この事件に関しては記事前半にサクッと本質的な部分だけをシンプルに書いています。
記事後半では、精神分析家のメラニー・クラインの「全体対象関係と部分対象関係」という「対象関係論」から見た分析で、これは今回の事件だけでなくもっと広い意味で書いている記事です。
Y容疑者のような異様な精神状態にある人間は想像以上に多く存在する、まぁこれは「潜在的に」という意味ですが、
今現在はまだY容疑者のように明確に犯罪を犯していなくても、「同質の自我運動を感じる」ことがある、という意味です。なのでそういう深刻な社会状況も踏まえての分析記事を書いています。
今回は詳細な情報が少ないために、私の推測的なものが多いですので、あくまでもそういう性質の記事であるということをご了承ください。
この容疑者には異様なものを感じますが、※ 変性意識での暴走タイプではないと感じたのが容疑者への第一印象です。(※ 変性意識:統合失調症や麻薬などによる幻覚性の意識などによる突発的な犯行ではないという意味。)
Y容疑者は「通り魔+ソシオパス」で、計画的だが知能は高くなく、邪悪で冷酷で猟奇性も顕著であり、「知・情・意」の「知」「情」が共に未熟で病的な異常人格だと感じます。
脳科学的に推測される状態としては、情動系、衝動抑制系が共に機能不全で、先天性の要素がある可能性も考えられますが、それよりも、私の心理学的な分析では「後天的な影響」が強いと感じます。
脳科学では、共感性(他者の痛みを感じる良心)の欠如は帯状回の機能不全に関連するといわれ、前頭前野眼窩部の障害あるいは未発達性によって、衝動の制御が機能不全になり、感情・情動抑制力の低下が生じるということです。
さらに側坐核の活動性が高いと欲求充足のために抑制が効かず、嘘や暴力性に満ちた言動を発現させようです。(京都大学の研究グループが側坐核の活動が高い人ほど、嘘をつく傾向が高いことを実証。)
家庭環境や具体的な生い立ちがどうだったかは現段階では不明ですが、後天的な影響が強いと感じる理由は、Y容疑者の様々な言動を心理分析的に見た時、生物学的な異常性よりも「強い劣等感・恨み・憎しみの偏執性」を感じるからです。
このタイプは発達過程に内外の問題があるまま見過ごされて成長し、「分離的な不調和な自己愛性の自我」を発達・肥大化させ社会的自我は未発達のままで大人になっていくわけです。
Y容疑者の十代前半は心身の能力も人間性も未熟のため、本人の潜在的な欲求は外的に実現化はできず、社会適応能力の低さとその脆弱性によって、抑圧傾向が強くあまり目立たず、
蓄積した劣等コンプレックスと不満は徐々に「シャドー化・人格化」して強化されながら、内的な怒りと憎しみが渦巻いているまま自己同一性を得られず、自我は成熟せず未統合状態のまま成長し、
身体が成長した十代中頃から「変質化したシャドー人格」がより具体的な暴力性として外側に開放され始める、という構造です。
キッカケは不良グループとの接触によって、より自我の能動性を高めた、という新たな負の力学による補強によって、サド化した自我の歪んだ支配欲求がそのまま弱い者に対して露出してきたわけですね。
この十代後半までの時点で既に彼の人格の雛型は殆ど出来上がってると考えられ、その後も人間性が育つような環境・生活ではなく、どんどん、エスカレートする一方だった、というまぁ現代ではよくある負のパターンのひとつではあります。
衝動性・冷酷さ・暴力性と共に嘘(自分自身を守るための嘘)が常習化しているのもこのタイプの特徴で、言動もやはり「低次の防衛機制」がメインですね。
この手のタイプとヤクザタイプの暴力性や反社会性との違いは、ヤクザは自然自我が先天的に強いタイプが多いので、この手の犯罪は逆に自我の脆弱性・未成熟さによる情動制御不全と負の感情が結びついた歪んだ自己愛性の肥大の場合が多いと考えられます。
全体対象関係と部分対象関係
統合状態が崩れ、内的な主観として感じられる自己のアンバランス化、例えば暴走化した扁桃体の反応や、帯状回の興奮によって過敏化した恐怖対象に対する過剰防衛、あるいは攻撃性、
これらの原始的防衛機制や低次の防衛機制が慢性化すると、社会的には孤立化しやすくなります。そのため自己を相対化することが出来なくなり、他者を尊重したり思いやることも出来なくなり、
快か不快かだけで好悪が激しく「分裂」(原始的防衛機制のひとつ)します。つまり、「通常の健全なバランス状態」ではそこまで強烈な存在否定や憎しみなど生じない状況下でも、
このような状態にある人々は極端な激しい思考・感情を『対象』に投影させ続けます。
その結果、「関心のある対象」へのストーカー的な異様な執着行為、あるいは逆に、過剰な敵愾心のような、二元分離の感情に支配された行動原理になる、ということですね。
または依存か利用でしか関係しない傾向があります。つまり未熟な「部分対象関係」が優位なのです。
どんな親しい人であれ身近な人であれ、嫌なところ、好きなところ、あるいは自分と合わないところ、合うところがあり、成熟した人は「全体対象関係」で互いに適切な距離感で人と関わるわけですが、
そのような成熟した「全体対象関係」が発達していないために「アンバランスな自身」を安定化させるために他者を利用したり、不足した自己肯定感を補うために他者を否定的に利用したり過剰に依存したり、
そういう「利用と依存」が優位の「部分対象関係」になる結果、何らかのトラブルや問題を抱えることになるわけですね。
「部分対象関係」優位の状態では適切な自他距離感がわからなくなり、対人関係が上手くいかない傾向になるわけです。そしてその状態に同化・固定化され、慢性化するとそれは「人格化」していくということです。
もちろん、「部分対象関係」が直ちに犯罪や事件に結びつくわけではなくて、この「分裂」した存在への眼差しが、強い劣等感・憎しみ・恨みなどの負の感情・記憶・体験と結びつきそれが「慢性化」する時、
猟奇的な冷酷さ、残酷さの人格形成の一つの重要なファクターになる場合がある、ということですね。