現象学・実存主義 「動的平衡」と「純粋経験」
今日はちょっと「自己愛」や「精神分析理論」のテーマをお休みし、精神分析学や臨床心理にも関連する思想・哲学をテーマに書いていますが、記事内容は「禅・瞑想」のカテゴリーも含んでいて、
「存在・生命・現象」とは何か?を含め、中立一元論、現象学、実存主義、プラグマティズム、純粋経験(西田幾多郎)、 動的平衡を中心に、他に心身問題なども含めて書いています。
今回の記事は、このブログでよく扱う概念やテーマの補足記事のひとつでもあり、また次回以降に扱う記事テーマにも多少関連する内容が含まれています。
※ 今回、記事内で紹介している参考PDF・参考サイト記事・動画の総合量が多く、特に参考PDFは初心者向けとはいえない内容で、「哲学的なテーマにある程度関心がある方」、「時間・体力的に余裕がある方」のための参考用です。この種のテーマに関心のない方や疲れている方は参考PDFは無理に読むことはありません。
※ 今回出て来る「動的平衡」は、オートポイエーシスの概念ではなく、福岡伸一氏の生命観より生じた概念の方です。
「動的平衡・禅・現象学・プラグマティズム・西田幾太郎に一体何の関係が?」と思うかもしれませんが、無関係に見えるこれらのものは実はそれぞれに関係性があります。
中立一元論
デカルト、あるいは西洋二元論的な人間観・生命観は、「心」と「体」を分けて考え、
身体を機械的な部分に要素還元したり、人間の心的要素を本能(動物的要素)と精神(人間的要素)に分け、両者はそれぞれに異なる原理として存在し、内的な敵対関係あるいは葛藤を生じさせる力学として捉えたりしています。
参考PDF ⇒ 近代科学の形成と還元主義的機械論科学の特質
もちろん日常において私たちは、身体のそれぞれの部位を明確に定義し、分離的に認識して扱うことは普通のことであるわけです。また言語を用いた考察、学問的・専門的分析をする際にも、当然そうしますが、
「現代科学の限界」というのは、技術による条件づけや人間の生物学的条件づけによる根本的な限界だけでなく、「どのような複雑な現象であっても、構成要素にまで還元すればすべての事実が解明できる」とする「還元主義的機械論」の限界もあるでしょう。
全体を分解して、各部分に分けそれぞれを探求し、そしてそれらの部分の総和が全体なのである、というような考え方は、「生命現象」という全体性そのものを捉えることは出来ず、むしろ見失っている、と感じることがあります。
それは「その全てが間違っている」ということではなく、「それだけでは生命・現象の全ては説明出来ない」という意味です。
「中立一元論」での人間観と言うものは、「肉体と精神は分離できない 一つのものの両面」であり、「心的でも物理的でもない、その両方の特性を併せ持った中立的な実体で世界は構成されている」という捉え方です。
これは「存在論」的には一元でも、「物的一元論」や「心的一元論」とは異なり、「性質二元論(属性二元論)」とほぼ同じ意味の概念です。
「性質二元論」は「実体は一つで、性質が二つ(心的な性質と物理的な性質)というもの」です。「実体は一つ」であるとすることによって、「実体二元論」とは異なり「魂」や「霊」などを心的実体にしません。
そして「二つの性質は一方を他方に還元出来ない」とすることで、例えば「意識現象を物理現象に還元する=心脳同一説」のような唯物論的還元主義、そして物理主義や観念論とも異なる捉え方なんですね。
私自身の考える「生命の意識の全体性」は、身体機能(ハード)や精神機能(ソフト)だけに全てが還元されるものとは考えていないので、「因果的閉包性」のような「物理的に完全に閉じたもの」として全ての意識・生命・現象を考えているわけではありません。
ですが、意識・現象と脳機能の相互作用・関係性は切り離せないものと考え、その機能や構造を分解的・科学的に分析してもいます。
「中立一元論」的な見つめ方は、「心身一元」「心身一如」というものを考える際や「複雑で全体性として存在する生命現象」を考察したり接する際にも大事なポイントでしょう。
参考PDF ⇒ ヴァレリー、道元、または現在の揺らめき
(以下「心の哲学まとめWiki」より引用)
このサイトは心の哲学と時間の哲学に関連する書籍やWEBサイトの記述を要約してまとめたものです。管理者個人の見解を記述している部分もあります。初心者の方の心の哲学入門用として、また中級者がより思索を深めるためにご利用下さい。⇒ 心の哲学まとめWiki
人間の「心(精神)= 心的現象」と「肉体(脳) = 身体現象」の関係の問題を「心身問題」といい、哲学の伝統的な問題・難問であり、現代も続いているものです。
現象学
次は、「現象学」についてですが、以下のサイトの記事がとてもわかりやすく詳細によくまとめてあるので、参考として紹介しておきますね。参考記事 ⇒ 01. 現象学とは何か 〓 フッサールを読む 〓
西田幾多郎が生きた時代は、現象学者であるベルクソン、フッサールやアメリカの心理学者であるウィリアム・ジェームズらが生きた時代と重なります。
フッサールの「純粋意識」やジェームズの「純粋経験」ベルクソンの「純粋持続」などの概念もそうですが、カントも含め、「純粋」という言葉が好きみたいに感じますね(笑)
現象学は心理学や精神分析学などにも取り入れられていますが、それは「現象学的な..」という程度であり、「部分的」なものですね。本当の意味で現象学が実践的に応用されているかと言えば、現実は違うでしょう。
現象学、実存論、精神分析の専門家である山竹伸二 氏によれば、「越論的還元と本質観取をとおして「心」の本質を明らかにできれば、心理学全体の土台となる基礎的な考え方が確立されるだろう。」ということですが、そのあたりのことを詳細に書いた山竹伸二 氏のPDFを紹介しておきますね。
参考PDF ⇒ 現象学的心理学の可能性
プラグマティズム
プラグマティズムとは、アメリカを代表する哲学思想であり、西田幾多郎も含め、日本の近代哲学、夏目漱石などにも影響を与えたといわれていますが、
実用主義、道具主義、実際主義ともいわれるように、物事の真理を実際の経験の結果により判断し、「効果のあるもの」は真理であるとする考え方で、ウィリアム・ジェイムズは簡潔に以下のように語っています。
最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向かおうとする態度なのである。(「プラグマティズム」ウィリアム・ジェイムズ著 桝田啓三郎))
「ウィリアム・ジェイムズの多元主義における倫理学」より引用抜粋
「1.ジェイムズの「純粋経験」と「多元的宇宙」」
まず始めに、ジェイムズの思想の中でも、自己が道徳、倫理の価値観を抱く源泉となる信念の形成に関連する論点として、「純粋経験(pureexperience)」および「根本的経験論(radical empiricism)」とそれによって形成される「多元的宇宙(A Pluralistic Universe)」 の世界観について検討する。
これらの考え方は、ジェイムズによる世界についての認識方 法の提示であり、デカルト以降の近代哲学において主流となった「心身二元論」としての 認識論から脱却するものである。
ジェイムズの「認識論」の特徴は、世界から切り離さ れ、超越した地点に主体を立脚して認識をおこなうというような、近代の認識論における 「主/客」二分の図式を撤廃することにある。- 引用ここまで-
(続きは下記リンクより)
「ウィリアム・ジェームズ」と「プラグマティスト」(デューイ・ミード)のPDFを以下に紹介しておきます。
G . H . ミードの社会心理学 一主体と客体の動的過程としての自我一
実存主義
「実存主義」はひとつはキリスト教的実存主義(キルケゴールやその影響を強く受けたカール・ヤスパース、フランスの劇作家で哲学者のガブリエル・マルセルなど)、そしてもうひとつは無神論的実存主義(ニーチェ・ハイデッガー・サルトルなど)に分類されます。
過去に「存在の虚無」のテーマで書いた記事がありましたが、そこで紹介した精神科医で心理学者の「V・E・フランクル」は実存分析・実存主義心理学を唱えた人であり、
彼の生み出した「ロゴセラピー」もまた、ハイデッカー、サルトルなどの実存哲学をベースにもつものでもあります。参考PDFを紹介しておきますね。
参考PDF ⇒ V.E.フランクルのロゴテラピィについてのー考察
「実存主義」の反対語は、本質主義で、それは「本質が実存に先立つとする立場」ですが、実存主義とは、「実存が本質に先立つ」とする立場です。以下に参考PDFと、ちょっと笑える動画を紹介しておきます。
参考PDF ⇒ サルトルの曖昧な他者–西田幾多郎との比較
サルでも手にトルようにわかる ジャン=ポール・サルトル
純粋経験
次は、西田幾多郎の「純粋経験」についてですが、西田幾多郎に関する過去記事があるので紹介しておきますね。⇒ 西田幾多郎と無意識の世界
西田幾多郎にとって「事実」とは一体どういうものでしょうか?彼は著書「善の研究」において簡潔に次のように言っています。
我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。
我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。 即ち意識現象あるのみである。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
これは主観的観念論的な存在の捉え方ですね。ただ、脳科学的な実在の捉え方とも一部(一元的な実体観において)重なります。
脳科学的な存在・事実というものは、「我々は主観的な感覚世界としての事実を認識出来るだけ」であり、
これはシンプルに「脳の神経細胞の発火・脳回路の活動による脳内現象」=「意識現象」=「存在・主観的事実(現実)」に過ぎないわけで、我々は実際の「客観世界(意識から独立した実在)」=「客観的真実そのもの」を知り得ないわけです。
主観的観念論と違うのは、知り得ないからといって「客観世界=真実」が存在しないということを短絡的に意味するものではなく、
そしてもうひとつの根本的違いは、一方は「意識現象」を「物的一元」へと要素還元し、もう一方は「心的一元」へと要素還元している、という違いがあります。
「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三) 」 より引用抜粋
「1. 1 全体論的有機体論からの影響(2)」
西田は、ホールデーンのもう一つのテーゼである 「生命とは、空間的な境界を有たない特異な全体として己を表現している自然である」
(« Life is nature expressing herself as a characteristic whole which has no spatial bounds. » この英語原文は、 全集第八巻四六二頁と第十巻二三三頁に引用されている)を、やはり好んで援用する。西田によれば、「空間が自己超越的に自己表現的要素を含むと云ふことから生命が成立する」(全集第十巻二四七頁)。
「生命は自然の自己表現である」というホールデーンのテーゼは、「歴史的生命の世界は表現的世界である」というテーゼとなって西田の生命論の中に組み込まれる。
生命に空間的限界がないということは、次のことを意味している。生ける身体は、代謝活動を通じて内的環境と外的環境との間のエネルギー交換を実行しているから、生命活動は、生ける個体の物理的延長という限界のうちに限定され得ない。
生命は、種に固有な形態・構造・機能とその環境との間の動的平衡を維持することそのことにほかならない。この動的平衡が生命そのものであり、それはそれぞれの種に固有の形で表現される。
この形は、それぞれの種が己に固有な仕方で物理的基礎を己に与えることによって現実に具体化されている。この意味で、生物の形態とその機能とは不可分である。
(中略)
西田は、歴史的生命の創造性を、この動的平衡状態を維持するために、自己が己の与えられた環境に対して行為的に働きかけ、自己が己自身と己がそこに生きる世界とを具体的・実践的にポイエーシス(制作)によって改変していくという事実の中に見ている。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
動的平衡(福岡伸一)
では次は、「還元主義者」と言われるドーキンスと対照的な生命観を持つ「福岡伸一」氏の語る「動的平衡」の紹介です。
福岡伸一氏の著書「せいめいのはなし」もとても面白いです。彼の思想的なバックボーンには、東洋的なものを感じます。西田幾太郎への共感もそうですし、生物・生命の捉え方が東洋的なんですね。彼がドーキンスと本質的に合わないのがよく理解できます(笑)
私はドーキンス的な切れ味のあるカッチリした考え方も嫌いじゃありませんが、ドーキンスとは対照的な福岡伸一氏のような東洋思想的発想の科学者も面白いなぁと感じますね。
これはどちらが正しいとかどちらが優れているかとかをここでいいたいのではなくて、同じ科学者で生物学者であっても「思想・哲学的バックボーン」あるいは「思考の型」が異なることによって、「現象」の捉え方というのは全く変わる、という実例を紹介しているんですね。
以下に「福岡伸一」氏の動画を紹介していますが、共に一時間弱ある長い動画なので、時間のある時にでもゆっくりご覧ください。