心と無形の対話
今回は、先の記事で書いた「心の存在と存在の徳性」と同様に、「心」がテーマです。「心」とに「意味」と「価値」を加えて考察しています。そして「禅・瞑想」の内容も含んだ内容になっています。
生きる理由があればほとんどどんな事態にも耐えられる (ニーチェ)
「力への意志」で「虚無」を超えるニーチェ的アプローチではなく、「意味への意志」でそれを超えるフランクルのアプローチを過去にも書きましたが、実存の「問い」に応えられるのは「自身のみ」です。
「外側(客観)から観察したある人間A」と「内側(身心そのもの)を生きている個人A」は「同一人物Aでありつつ全く違うA」なのです。
「他者」と「私」は異なり、「状態の観察」と「状態そのものを生きること」は全く違うのです。実存というのは、統計も数値化も出来ない「それ自体」なのです。
ではまず一曲、Darlim&Hamabalのcoverで「テルーの唄」です。「心」を何にたとえよう 一人道行くこの「心」。それ自体を生きる「心」、そこに詩(実存の物語)が生まれます。
「言葉」はある種の「呪い(呪術・魔術)」、宗教も、ことわざ等も同様に。しかし物事の両義性・多面性を観るならば、それは「発信側と受信側の組み合わせとタイミング」で決まるだけの、相対的で一面的な「意味・価値」と「心」の同期でしかありません。
言葉、概念それらは全て「虚」でありつつ、多元的なもので、ひとつの意味・価値に完結はしていないのです、「人間」と同様に。
前回の記事で、存在の徳性(内発性・創造性の質)、型としての徳性(外発性・道徳性の質)、というのは、親鸞の「他力」と「自力」の捉え方とも関係性において同じで、そして「有心」と「無心」、「分別知」と「無分別知」も同様です。
親鸞の「他力」は、「他者」への「依存」ではなく、「他力本願」、「自助努力のない他人任せ」、みたいな信仰状態を表すものではありません。
これは「分別知」から「無分別知」への移行であり、「有心」から「無心」への移行です。親鸞の「他力」の捉え方にある「義なきを義とす」、つまり「行者のはからいを捨てる」、というのは、現代風に言い換えれば、
「義」というフレーム(型)の中で条件づけられた「私」が捉えようとしても、それは個の心(自我)の投影物に過ぎないので、「私」には「私」を超えたものを決して知ることはできない、「私」による自力では「私」は超えられない、
そして「有心」から「無心」へと移行していくことで、そのもののはたらきが現れる。とはいえ、鎌倉仏教というのは、鎌倉時代のエピステーメー(フーコーが使う意味での)によって変質した、釈迦の教えとは異なる独自の解釈による仏教思想です。
そして中村元 (著)の「日本人の思惟法」でも考察されているように、「日本に独特な原初的な思考の型」があるんですね。
思想の解釈というのは面白いですね、それは「○○は原典とは異なる」という単純な事実の正誤を見るようなことではなく、「それをどう解釈したか」の中に「解釈した側のフレーム」があり、そのフレームを観ていくとまたさらに別の思想、思考の型に基づいている、その多層性を観ること、
そしてミームが生き物のように進化・変容していく様が面白いのです。
「中村元の比較思想研究における仏教解釈」 より引用抜粋
日本では20年来,仏教教説に関する一つの論争が行われているが,ゴータマ・ブッダが語ったことが,即,最高の教えであったということにはならない.思想の歴史の中では,「教祖の語った教えは素晴らしいものである」という考えが,「教祖が語った教えだから素晴らしいものである」という考え方にしばしば移行する.
しかし「ゴータマ・ブッダが語った教えは素晴らしいものである」というのと,「ゴータマ・ブッダが語った教えだから,素晴らしいのである」ということとは同じではない .
また,「ブッダが語った教えからはずれてしまったので,即,その教えは切り捨てられるべきものである」と考えることも危険である.『日本人の思惟方法』はその一例であり, 本来の仏教の教理から変容されているから,即,思想として価値の低いもの, あるいは排斥されなければならないものではないわけである.
中村は彼の比較思想研究において,「思想そのものの論究 」という考え方に立って研究を遂行している. この考え方においては,「だれ」が語ったのかではなく,「なに」が語られたのか,すなわち思想の内容の価値が問題となる .
中村はこうした立場から東西の思想を批判的に比較検討し,その中で仏教についても論究していった.『思想をどうとらえるか』の中で「思想そのものの価値」について,思想そのものは権威者によって語られたものであろうとも,市井の凡人によって語られ たものであっても, 真理性そのものにかわりがないことを中村は主張する. ⇒ 中村元の比較思想研究における仏教解釈
親鸞の他力アプローチ「自然法爾」は、言い方を変えれば、「私」のフレームを超えることで「私」の苦悩から解放され、「元型」の持つ力を他力とすることで守られている構造であり、この信仰形態は、元型の力(マナ)を強めます。マナが生きている時、それは自我の力よりも強いのです。
だから宗教の力は、時代がどれだけ進んでも、いえ科学主義化、個人主義化すればするほど、「潜在的には宗教の方が強くなる」という逆説があり、それはマナから切り離された個人は「根なし草」であり、共同体の土台部が脆弱化するからです。
そして何かのキッカケで「虚無」に飲まれた時、「伝統宗教の形式とは全く異なる姿でも本質は同じ宗教的なるもの」が再び発生するのです。それが仮にカルト性のものであってもある種のマナを持っているからです。
「私」は「それ」を形式知として「理解」は出来るが、「それ自体」を知ることはない、これを禅では「不立文字」と呼び、禅、そして親鸞のアプローチには「日本的霊性」が深く関わっています。
「日本的霊性」と「西洋的自我観」は、「ポイエーシス」「プラクシス」の関係性にも繋がる話です。まず、「ポイエーシス」「プラクシス」この概念の参考として、関連する内容の外部サイト記事を紹介します。
人類学者クロード・レヴィ=ストロースは世界的に有名な学者ですが、彼が見た「日本人の姿」の中に見出せるもの、それは「西洋に見失われた身体性としての多様性」のひとつなのです。
「レヴィ=ストロースを驚かせた日本人の労働観――『行く先はいつも名著が教えてくれる』刊行記念スペシャル対談【後編】」 より引用抜粋
(前略)
レヴィ=ストロースはそこに気がついた。つまり、日本の職人は主体的に何かを支配しようとするのではなくて、素材そのものが持っている素晴らしさ、潜在力を引き出そうとする。これを彼は「野生の思考」と呼んでいますが、それが日本人の働き方であって、いまの西洋人が失っていることだ、と言うのです。そして「日本人にこそ学べ」と。
(中略)
秋満:ギリシア語に「ポイエーシス」という言葉があって、これは潜在的なものを引き出すということです。一方で「プラクシス」というのがあって、自分のプランを相手にあてはめて支配する方法です。もともとギリシアには両方の働き方があった。ところが西洋世界が近代化し労働が効率的になっていく過程で、ポイエーシス的な部分が失われて全部プラクシスになってしまった。レヴィ=ストロースがすごいのは、日本人の働き方を見て、西洋人ももう一度ポイエーシスを取り戻そうよ、考えたところです。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ レヴィ=ストロースを驚かせた日本人の労働観――『行く先はいつも名著が教えてくれる』刊行記念スペシャル対談【後編】
まぁ上の記事内容は職人の仕事・技芸における話がメインですが、「ポイエーシス」と「プラクシス」の関係性は多元的です。そして職種によっては現代日本は既に西洋とほぼ同様の身体観になっているわけですが、
「テクネー(テクニックの語源のギリシア語)」という概念も複合的な意味を有し、それが「プラクシス」からのスキルなのか、「ポイエーシス」から生成されるものか、この方向性の差異、それもまた「他力」と「自力」、「意識」と「無意識」の関係性と重なるんですね。
思想家の柳宗悦の「用の美」という概念がありますが、そこには単なる「機能美」ではない美、「日本的霊性」が宿るモノ・コトの捉え方があります。⇒ 生成するテクネー ── 柳宗悦
「日本的な心・体」というのは、西洋の自我観、身体観とは異なる質のものである、ということです。そして「プラクシス」型優位の現代社会では、西洋の自我観、身体観での「イノベーション観」が主流ですが、「古来からある日本的身体観における創造性」は、質が異なるのです。
欧米出羽守さんや、アメリカナイズされた専門家等が、「日本は古い」という時、おっしゃる通り「確かに古い」のですが(笑)、「古いものが悪くて新しいものが良い」とは限らないのです。
そこには西洋に見失われた「人類の身体観」が未だ息づいている、ともいえるし、その身体観には別の長所があるのですね。また「身体観」の差異が世界に在るというのは、「存在の多様性」が生きている状態、ともいえるのです。
それを「西洋に対して劣っている」とただ否定するだけの人というのは、「身体性」「身体観」に多様性が無く均一化されているのです。そのとき、そこには「型の新旧」しか観えません。ゆえに「存在の多様性」ではなく「型としての多様性」しか見えなくなるのです。
「身体性がなければわからない知」、「心・技・体」の「心」の力、この場合それは「西洋でいう自我とは異なる主体」であり、そこに深い関心を向ける人も西洋に存在します。
良い意味で「日本人は日本の西洋にはない良さに自覚がない」、それが「当たり前」ゆえに、「西洋ばっかり見るようになった」ともいえます。
ところで「無形の動功(気功のひとつ)」は、存在の「気」の流れのままにそれそのものが動きます。万物もまた「気」の流れのままにそれそのものが動きます。踊り、ダンスもまた「有形の動功」であり、「プラクシス」な動功と「ポイエーシス」なものがあります。
ではここで一曲、yurinasia で「環ROY」です。うーんいいかんじ、動功のようなゆらぎです。そういえば気功の起源は古代の「舞」にある、ともいわれていますね。お気に入りのダンサーです♪
心と無形の対話
「自己実現」と「悟り」というのは本質的にベクトルが真逆、と過去に書きましたが、「創造性」と「合理性」もそうですね。また、ロゴスが及ばない領域においては、「ミュトス的なもの」の方が強く作用します。
「ミュトス的なもの」は、「虚」としての創造性のひとつなのですが、その複合的な作用の中には危険なものがある、ということは「病的な精神世界」のカテゴリーで過去に書いてきました。
たとえば「創造性」は、個々の「煩悩」を肯定し、正負にゆらぐダイナミズムに自己が変容されていくのです。これは自我の領域から観れば、という「一般的」な次元の話であって、無意識の領域から観れば、「概念としては同じもの」をまるで異なる存在として捉えるのです。
大乗仏教の「煩悩即菩提」という概念が在りますが、自我の領域でこの概念だけをそのまま捉えるなら、それはただの同化でしかないですが、「対概念」が全融解する「無形の瞑想」は「テオリア以前の原初の知性」であり、「無意識への応答」は言語に依らない「無形の対話」なのです。
ロゴス的知性で捉えた文脈の意味解釈ではなく、「それそのものとして存在している何か」に触れるのです。その時、自我領域で捉えるのとは、「同じものを観ていても」根本から全く違ってしまうのです。
何かに近いような「型」を持つ人が実はそれ自体から一番遠く、何かの型から遠いような人がそれ自体に一番近いところにいる、というのは、あることなんですね。真面目な人ほど、訓練された思考を持つ人ほど、逆にそれ自体がわからなくなる、ということもあるんです。
「概念」を意味次元で解釈しているだけだと、ロジックの文脈理解に止まるのです。言うまでもなく「概念」は人間にとって重要なものですが、○○は重要、○○は重要でないとかそういう話ではなく、「概念理解の外」に触れていく、ということです。
「無形のマインドフルネス」は「(よく知られた)マインドフルネス」とは「同じであって全く違う」、「禅」も同様ですが、これも先の話と通じているものです。
一切の型を持ちません。また無意識へ触れることは、職種とか一切関係ありません。無意識に触れるのは、何か特定のアカデミックな分野・知的権威としての専門を通さなければ出来ない、というようなものではありません。
「群盲象を評す」を「無意識に触れる」の話でいうなら、『それぞれが触れているが、「それ自体」は言語化できないため、それを概念を使って表す際に、その分野のフレームに嵌めこまれて変形・変質する』のです。
「無形のマインドフルネス」には「境界」がないのです。そして「無学で煩悩にまみれた無能な人(近代的尺度でそう評価される人)」がより広く、より深く触れる、ということも当たり前に起きてきます。
これは「変容可能性」にしてもそうです。「煩悩即菩提」もそうですが、「ゆらぎそのもの」も無形の瞑想と共に在るのです。
何の役にも立たない「意識の空っぽさ」、「枠のなさ」のなかにそれが生じる、という逆説があるからです。「無用の用」の体現者のような感じですが(笑)
無名とか有名とか、高学歴とか低学歴とか、インテリとか亜インテリとか、そんなことは何の関係もないです。
「心」がつく漢字って多いですね、以前に「気」がテーマの記事で「気」のつく漢字を少し書いたことがありましたが、「心」と「気」は連動するものです。
恋心、親心、真心、良心、悪心、邪心、無心、信心、そして、嫉妬心、虚栄心、探求心、警戒心、復讐心、自律心、懐疑心、信仰心、猜疑心、好奇心、自尊心、闘争心..などなど他にもいろいろあるわけですが、「心」も「気」も「あまりにも当たり前に有る」からこそ「無い」ように感じる、というものでもあるんですね。
「お気持ち」というのは「心」と「気」が連動した状態です。それ自体は良くも悪くもないものですが、関係性によって良くなったり悪くなったりもする「相対的で動的なもの」です。
「お気持ちパワー」だけで暴動や革命が起きることがあるように、「虚」が「実」に作用する、それが人間の特殊性で、人間の過剰なゆらぎは「虚」と「実」の葛藤状態から生じるのです。野生動物は「実(自然界)」の領域を無意識に生きているから、人間のような複雑な葛藤が生じないのです。
「たかがお気持ち、されどお気持ち」、心は目に観えない非実体、だが言動に観える形で噴出してくる。
「心」と「意味」の同期
ノーベル賞の真鍋さんが、「原動力は好奇心」と語っていて、「同調圧力が嫌い」とのことも書いていましたが、「好奇・心」もまた「心」あるゆえです。そして韓国でも同じように捉える共感の声が上がっているようです。
⇒ ノーベル賞真鍋さんの“衝撃告白”に韓国ネット「韓国も同じだ」
「悪・意」「善・意」は「意味」の領域であり、人は他者の「悪・意」に傷つき、「善・意」で救われる。(善・意で傷つけられることもありますが) 人は「心」と「意味」の価値の領域内で生きている。
「言葉」は意味の領域であり、人が「他者の言葉」に腹を立てたり傷つくのも、「気持ち(自尊・心)」があるからで、「価値」が有ると思っているからこそ「価値を下げられた、損なった」と感じるのです。そして「価値」と「意味」と「心」を前提として生きているからこそ、人は言葉や疎外感で「心」が「傷つく」のです。
「信心・信仰心」もまた「心」あるゆえです。心に依存して「信」があり、神や仏を何か信じるのは「心」ゆえです。「生物それ自体」「機械」には信仰心もない。「何らかの信が人間に必要になる」のは、心が有るからなのです。
「羞恥心」や「後悔」も心あるゆえです。心が有るから「恥」を感じる。機械は決して「恥ない」。生命は自律的なオートポイエーシス的システム、機械は他律的なアロポイエーシス的システムです。
「外」から客観的に観ているなら、客観的な実在としての「心」はないとなる、しかしそれは反面は事実ですが、全てではないんですね。「脳」を内側から観れるか?特殊なスタンドでもあれば出来るかもしれませんが(笑)、
「私」は「内側」で生きている、「身体それ自体」を経験する主体なのであって、外から脳の活動を観る客観は「身体を生きていない」。それ自体を生きているものと、観察されたものは同一ではないのです。
「事実として」人間は「心・意味・価値」を生きている。「実」として存在しない「虚」は、人間にとっては事実性なのです。
心のゆらぎが「気」であり、気の質が「様々な気持ち」であり、それは「意味・価値」と同期している。「心なんて存在しない」と言ったその直後に、「○○は気持ち悪い」と感じ、かつクソリプやマウントにムカつく気持ちを感じる、それが人間の両義性です。
科学的知識云々でどれだけ緻密に検証しても「それそのもの」を永遠に体験出来ないように、科学者であれ何であれ、人はその日常を「虚」で生き、虚に傷つき、虚に笑い、虚に喜び、虚に悲しみ、虚に怒り、そして虚で自殺もする。「他者」をいくら外から分析しても「経験する主体」には触れられない。
そもそも何故世界には「私」と「他者」がいるのか?何故「私」は「ここ」に「他者」は「ここ以外に」生じたのか?
「外」から客観的に分析し、脳・神経に要素還元された生物学的人間観では「心」が抽象的な非実体であっても、人間にとって、「内」から観た「人間そのもの」を生きている心は、抽象的どころか「最も具体的で明確な事実性」なのです。「統計的事実」や「平均的人間観」の内にも外にもそれ自体は存在していないのです。
虚の創造性がそれ自体で変化していくシミュラークル、それが「心」と「意味・価値」の同期によるゆらぎで生じるのです。人間は遺伝子によって「似たもの」として「実」としてのミメーシスで誕生し、実存に「虚」としての「私」が生じる、
そしてミメーシス(模倣)と遺伝子が合わさった概念がミームですが、文化はミームという「虚」の「ミメーシス」で伝達され、集団に「似たもの」としての「虚」の共同幻想としての物語を生み出す。
ジャン・ボードリヤールの概念を用いれば、近代を生きる「私」は「社会」というハイパーリアル、「マクロなシミュレーション世界」に「同化」して生きている、「私」は「虚」自体を生きる「ミクロなシミュラークル」、ともいえるのですね。
「実」から「虚」を生み出し、「虚」が「実」となり、「それ自体」「存在」は常に見過ごされる、それが虚としての人間の第二の生であり、実以上に実らしい生なのです。
最近ニュースで、眞子さまの結婚の事が色々と言われていますが、世間の大きな「心・意味・価値」の領域の中で、数々の「心無い言葉」、その「悪・意」の「意味」が真子さまの「価値」を損ない「心」を傷つけ、その姿に対して心有る世間の人は「心・配」するわけです。
しかし眞子さまの「恋心」は屈しませんでした。それ以上に強い個の「意味・価値」に心が同期しているからこそ、世間に流されないのです。
それがいい判断か悪い判断か、政治的に正しいか正しくないか、それはさておき、個の「心」は、客観的な分析よりも「具体的な事実性」であるということです。
それが生きる原動力になっているからこそ、「誰が何と言おうと私はこうしたい」と、明確に現象化出来るわけです。「心」有るゆえに「心無さ」に傷つきもする、でも同時に自身を生かすことも出来る、それが「心の両義性」なんですね。
追記ですが、「眞子さまの心の独自性」が社会的圧力の緊張の中ではなく、もっと自然に現れたら、案外以下↓のツィートのようなホンワカしたものだったりする可能性はあるでしょう(笑)
眞子さん、英国王室抜けた人みたいにゴシップ番組にネタ売ったりしなくても、youtubeチャンネル開設してNY生活実況とか普通にやったら、たぶんわりと普通に面白いと思うんだよな。あの人、たぶんちょっと面白い人だと思うんだよな。
— ジロウ (@jiro6663) October 22, 2021
「心はそれ自体では存在しない」にもかかわらず、明確に具体的な主観として個々に感じられる、という意味では人間にとっては「実体」よりも「実体的」であり、人間は「虚」と「実」の相互依存的な力学で生きている創造体であり、人間の問題は常に両義性を内在している、ということです。
そして「人間の力」は「動物の力」とは異なり、「虚」なくしては育たない。「心」も「虚」であり、心の生み出す物語が全て「虚の創造性」の領域であると同時に、人間の生、人間の生命力でもあるのです。
「心無さ」に傷つくのは「心有る」ゆえ
他者の悪意ある言葉やパワハラやモラハラで心が傷つき、怒りを感じるのも、「心と意味が同時に有るから」であり、おっさんの「下・心」を不快に感じるのもそこに「心と意味が有るから」です(笑)
「心」は静的なそれ自体で存在する実体ではなく、動的なゆらぎであり、正負のどちらにも揺らぐのので、それ自体が良いもの、悪いもの、と決まってはいない。「○○には心が無い」という表現は否定的な意味合いの表現ですが、「心が有る」からといって「善い人」を全く意味しない。
そのゆらぎのある特定の状態を意味付けをすることで、良心、悪心、邪心、下心、恋心、親心、というように、表現されるわけで、心は様々な動きで揺らいでいるわけです。
人の生が「価値も意味もない」のであれば、親が子の将来のことを案じることはなく、子も親の「至らなさ」を恨みはしない。親も他者や自身の至らなさで心を痛めたり憤ることもない。人間の葛藤や怒りや不安や心配、そこには「意味、価値、心」が常に有る。
「安・心」を求めるのも心有るゆえ。心が無いなら「安・心」もない。「恐怖心」も同様。そして心は「意味・価値」とも同期しているが、心は無意識を含んでいるため、身体、自然界とも同期している、人間の心の内奥は、自然界、「ヒトではないもの」にも繋がっているのです。
身体のバランスとか、精神のバランスとか、特定のバランスではなく、「人間の全体性」(両義性・複雑性としての)バランスが極端になる時、人間は「それ自体が壊れてしまう」という「不安定さ」を元々有している、その意味で、生き物としての病気、メンタルヘルスの問題としてではなく、
そういう問題以前に、「人間」にはそもそも最初からバランスの問題がある、ということです。「過剰」というのは人間の両義性、複雑性による元々のバランスの悪さによるもので、大きな揺らぎが生じるように出来ているからなのです。それゆえに苦しみ、それゆえに喜び、創造性も高い、そういう生き物なのです。
「無意味」と「意味」
「存在しないもの」は傷つけようがない。有るゆえに損なう。「傷心」は「心」が「在る」ゆえに生じる。人が生を「無意味」と表現することも同様に、それは「意味」に依存して「無意味」が在る、というだけで、人は「意味世界」を「有心」で生きている。
「心無い」と「無心」は異なり、そして「無心」はいろんな「意味」に使われる言葉ですが、ここでの場合は、「身心一如」の状態です。心が「無」ということではないです。
そして先に書いた「ポイエーシス」と「身心一如」が合わさる時、「無心」が「心・技・体」の調和した全体として現れるのです。
しかし「無心」は「有心」とセットであり、意識した訓練・努力の「有心」を経て「無心」に至るのと、最初から「無心」は異なり、「有心」⇒「無心」⇒「有心」⇒「無心」を繰り返しながら無意識が学んでいくのです。そうやって「無心」と「有心」が共に進化していく。
これが「型と存在双方のバランスの中での無意識の学び」なんですね。
身体そのものがそのまま生み出していく、と同時に、「意識して行う過程」が無ければ技能は身につかない、の両義性を考えるわけですが、
「無心」には、高い技術が「今ここを生きる心と身体」が「身心一如」となって自在に表れてくる状態と、ただ「今ここを生きる心と身体」というだけの状態がある。
意識する「有心」の過程(緊張とぎこちなさ)があるから「身体と心のズレ」に気づける、そして「事実記憶(知識)」+「運動記憶(身体の記憶)」=「技術」が「身心一如」の状態で「今ここを生きる心と身体」になる時、それは「無意識に出来る」ようになる。
徳性は全く異質ながらも、両者のバランスとゆらぎで人間は生きているから複雑なのであり、その無と有の両義性、複雑さが面白い、感じることのなかに「人間の全体性としての肯定」があるのです。
「○○は無意味だ!と言い切れる心」は、「そう言っている心」に「価値や意味が有る」ゆえにそう言い切れる。本当に「意味も価値もない生それ自体」を生きているなら、そこには「無意味」も無い。「それ自体」には「意味」も「無意味」も無い。よってそれ自体を観ているだけでは人間の生は逆にわからなくなる。
自然科学のジレンマは、人間の有する両義性ゆえのジレンマであり、ロゴス的知性のジレンマである。自然科学だけでは人間はわからない、脳だけを観ていても人間はわからない、生物学的アプローチ、進化的アプローチだけを観ていてもわからない、それが人間の両義性。
これは「だけ」ではわからないという意味で、そのアプローチ自体が無駄、的外れということではなく、それだけに還元できない複雑さが人間には有る、ということですね。
「意味と無意味」のロゴス的思考の二元論しかもたないニンゲン意識は、「有るか無いか?」、「有」か「無」か?のジレンマをループするだけで、「有それ自体、無それ自体」が「何か」を知り得ないのです。
ニンゲン意識で「○○は無意味」というだけで、それ自体は、意味にも無意味にも還元できない「わからないものとしての何か」に繋がっているのです。
これは「無」は「無ではない」にも通じる話ですが、「有」という概念は「無」の概念に支えられ、「無」の概念は「有」の概念に支えられているので、概念知だけを無限ループしているだけでは、「無」にも「有」にも触れないままなんですね。
そしてロゴス的思考の限界点に現れる「虚としての神」、この「信仰対象」は、それ自体が「無意識の境界」になっています。この「神という名の境界」は原初の観念の枠であり、そのひとつの現れが元型ですが、これも未だ「有」の領域なのです。