竹井容疑者と最近の犯罪傾向
今回は「犯罪心理学」のカテゴリーテーマの記事ですので、ちょっと重いテーマに再び戻る感じになります。
浅田真央選手の素晴らしい姿に感動したのも束の間、異常な通り魔殺人事件の連続発生や、陰湿なイジメ暴力・逆ギレなどの事件は全く絶えることはありません。
まず、比較的最近あった三つの事件のニュース記事の引用紹介を先にします。その後に続けて、世間を仰天させた「通り魔殺人の竹井容疑者」の事件を今回はメインにピックアップします。
「腕に溶けたろう、ツイッターにいじめ画像 突き落としで無職少年ら再逮捕 大阪・堺」 より引用抜粋
堺市の石津川で昨年11月、男子専門学校生(16)が川に突き落とされて溺死した事件に絡み、同9月に専門学校生の腕に溶けたろうを垂らし、やけどをさせたとして、
府警少年課は16日、傷害容疑で、突き落としに関与していた無職少年(17)=傷害致死罪で起訴=ら2人を再逮捕。
新たに同市の私立高校2年の男子生徒(17)を逮捕した。3人とも「おもしろ半分でやった」と容疑を認めている。
府警によると、3人は専門学校生の腕に火のついたろうそくを立て、カメラで撮影した画像をツイッターで公開していた。府警は少年らが悪質ないじめを繰り返していたとみている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140116/waf14011616470031-n1.htm
『「中学で女子にいじめられ」…ベビーカーの女性頭にボールペン! 茨木の事件、容疑で大学生を追送検 』より引用抜粋
大阪府茨木市で昨年11月、乳児を乗せたベビーカーが蹴られたり、押していた女性が襲われたりした事件で、
大阪府警捜査1課は、女性1人に対する暴行容疑で逮捕していた高槻市玉川の追手門学院大2年、杉本大輝容疑者(20)を、別の女性2人への傷害容疑で追送検したと発表した。
府警によると、杉本容疑者は「大学の単位が取れずにイライラしていた。中学時代に女子にいじめられていたことも思い出し、女性に対してかっとなった」と容疑を認めているという。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140110/waf14011015490022-n1.htm
「ホームレスの頭と顔何度も踏みつけ殺害 「遊び目的…犯罪傾向根深い」少年4人に懲役5~10年求刑 大阪地裁」より引用抜粋
大阪・梅田で平成24年10月、ホームレスの男性を襲い、殺害したとして殺人などの罪に問われた18歳の少年4人の裁判員裁判の論告求刑公判が10日、大阪地裁(岩倉広修裁判長)で開かれた。
検察側は「遊び目的で落ち度のない被害者を集団で暴行し死亡させた。責任は重大で刑事処分が相当」として、4人に懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑した。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140310/waf14031011270007-n1.htm
上記の三つの事件ような陰湿で心無い現象は、全く変わることなく起きつづけています。嫌悪・怒りによる他者への攻撃が、ストレス解消や楽しみのための手段にされています。
異常犯罪の中にうごめく不気味なもの
そして上記の事件ような嫌悪・怒りによる他者への攻撃がさらにモンスター化すると、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇や加藤智大・宅間守のような大量殺戮の事件となります。
そして深層心理学・認知心理学・認知科学で対象分析すると、モンスターたちの「見えない何か」が見えてくるんですね。行動主義心理学では見えない酒鬼薔薇の「透明な存在」とやらも見えてきます。
宅間守や、最近起きた通り魔事件の竹井容疑者に関してもそうです。深層心理学と認知心理学・認知科学で分析すると、彼らの凶行は「ある程度は」予測さえ出来ます。
実は竹井容疑者に関して、私は深層心理学と意識の感性的な分析、そして認知心理学・認知科学的な分析を一昨日に行って記事更新する予定だったのですが、その詳細記事をアップするのはやめました。
まだ最近の事件だし、あまりにも生々しい内容なので、ここには具体的には書きません。記事を読んだ方が心が弱っている人の場合、良い影響が一切ないと考えたからです。
竹井容疑者は意識内に特殊な狂気世界が存在しています。宅間守の方が狂気パワーのレベルは凄いですが、同質のものを感じました。
私が竹井容疑者に見た内容は、霊能系の人とかだと、おそらく悪魔憑きに見えるのでしょうが、今回はそう表現したくなるのもわからないではない、というほどの分析結果でした。ですが、悪魔憑きなど存在はせず、意識に蓄積され表象化された「強力な憎悪の想念の塊」ですね。
「想念の塊」=「形状記憶体・情報の濃いループ」、それは原始的な脳・遺伝子を含んだ「誤作動・異常」の一種で、「脳の機能不全状態」が絡んだ事件です。
それが先天的なものが優位で引き出されたのか後天的ものが優位なのかは、彼の生い立ちをもっと詳しく見ないとわかりません。感性の非常に敏感な方や子供は、あまり竹井容疑者の映像などは見ない方が良いですよ。そのくらい危ない意識状態です。
これは、この種の感性が本当にある人で、感受の仕方に歪みがなければ、ある程度は正確にわかる「感覚」なのですが、この話は一般向けの内容ではないので詳細は省略します。
まぁこの手の話は昨年までのテーマで書いてきたので、新しい読者で興味がある方は過去記事をご覧ください。
⇒ 病的な精神世界・オカルト・カルト系新興宗教心理学的検証のまとめページ
今回は意識内容の詳細な分析記事は省略しますが、まだ「竹井容疑者」ほど重症ではないがそれに似たタイプの意識状態(一部)をテーマにした記事を以下に追加で書きました。(2014/03/17 追加更新)
壊れた人だけが苦しんでいるのか?
よく「俺の苦しみなどお前にわかるものか」「人格が破壊された人間の苦しみがお前にわかるのか?」とかいう人がいます。
これは確かに「理解されにくい心の叫び」が含まれてもいるでしょう。ですが同時に被害妄想や視野の極端な狭さによる見落とされたもの・決めつけも多く含まれています。
そういう言葉を聞く度に、逆に私は「壊れた人だけが苦しんでいるとでも思っているのか?」と思いますね。
苦しみ・ストレスを撒き散らして解放し、「俺の苦しみを味あわせてやる!」と狂う人の苦しみよりも、そうならずに生きている人が人知れず耐え、もっと深く苦しんでいることなどザラにあるのです。そうでありながら憎しみや嫌悪の鬼と化さずに生きる人々などいくらでもいます。
涼しい顔や笑顔からは想像できないストレスを感じながらでも、その中で人として生きようとする心の苦しみは、「憎しみや嫌悪の鬼と化した人」や「自己正当化しかしない人」には見えません。
そして犯罪者以上に心が完全に壊れて、犯罪のエネルギーすら残っていない無気力化した人なども世の中には大勢いるんですね。
「荒々しく猛々しく誰の目にもわかるアクティブな負の感情」だけにしか、「心の叫び」「破壊された日常・精神」の苦痛のリアリティがないとでも思っているのでしょうか?
荒々しく悲痛な声をひとつも上げずにじっと苦しんでいる人の、リアルな「心の叫び」など存在しないもののように軽くて小さいと思い込んでいるのでしょう。
ただ精一杯の日常をささやかに生きているだけの一般人が、狂気の鬼の悪意の対象にされ、嬲り殺されています。殺された人々の物言わぬ「心の叫び」がそういう心に届きますか?
そういう人が聞くのは「自分の心の声」「自身と似た荒々しく悲痛な鬼の声」だけでしょう。「怒りや憎しみ」が無意識状態のままで行為は正当化され、それが習慣化し一体化した意識で生きているだけなんですよ、その姿は。
自身の怒りに麻痺して、他者の痛みを感じれない、常に自分の痛みや苦痛ばかりを最大限に意識し続け、憎しみを量産する、その想念のループが蓄積され、ついには鬼が内的に人格化し、何かのキッカケで姿を現すだけです。
鬼化した人でも、その本質は鬼そのものではないのです。それは最初は「小さな兆し」からスタートしたものでしょう。「小さな兆し」が意識化されずに見過ごされ、内的に肥大してくると、それが人格化していくのです。
どうしてそうなったのか、どうすればその苦しみから解放されるか、という方向に向かわないのであれば「そこに居続けるだけ」なのです。憎しみや嫌悪の鬼は、それ自体が「地獄」の意識です。地獄の意識を共有する人が欲しいだけなら、苦しみは続くでしょう。
そして既に、その膨大な量の負の思考の繰り返しによって形成された形状記憶と情動の強固な一体化は、意識に深く焼き付き、一人の人格のように息づいてさえいます。それが地獄の苦しみの正体です。
苦・痛みの総量や「感受の強弱」は人によって違います。ですが「苦のメカニズムは同じ」なんです。どっちが苦しいか?なんて比べることに意味はないです。
「苦のメカニズムは同じ」だとしても、「それが理解できないほど壊れている、だからそうし続けるのは仕方ない」というのではなく、「それが理解できないほど壊れ始めている、だからこそ完全に壊れる前に治療するしかない」のです。
世界中に、日本では想像もつかないほどの想像を絶する苦痛を受けている人々がいます。
その想像を絶する苦しみの中でも人間性を失わない人も沢山いるのです。また想像もつかないほどの孤独と貧困、愛情の不足の中で、凶悪犯罪者にならない人は沢山います。人の心の姿は相対的です。ですが同時に意識の構造は普遍的なんですね。
心に留めて、今日を生きようと思います。