浅田真央選手と社会現象 「健全さ・正しさ・美しさ」の心理

 

浅田真央選手のパフォーマンスに感動し、そのテーマで記事を書こうかとも思っていたのですが、連日連夜、テレビ・新聞・ニュースで毎日のように騒がれているので敢えて書きませんでした。

 

単に絶賛一辺倒な記事ではなく、ちょっと違った角度から書いてみようと思います。森氏への返答コメントは浅田選手らしいホンワカしたコメントでしたが、私はこう言って欲しかったです。『 私は大事なところで転んでも次は成功させた、森さんは大事なところで「失言」で何度んでいるんですか? 』

 

ではここで、ちょっと熱いロシアの新聞記事を引用紹介です。

 

「アサダはサムライ」ロシア地元紙も感銘」 より引用抜粋

(前略) 
ロシアの地元紙は、浅田の滑りから受けた感銘を隠さなかった。「スポーツ・ルー」公式ブログで同紙記者が「私はサムライを見た。それはマオ・アサダだ。すでにSPで勝負の行方は分かっていたが、

マオは他の女子には誰にもできない3回転半ジャンプに殉じて、ハラキリした」と振り返った。

さらには「サムライにとってメダルが何だ! ハエだ! サムライにとって唯一の勲章は不朽の名声だ」と熱くつづっていた。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「アサダはサムライ」ロシア地元紙も感銘

 

この記事の表現は何だか笑えますが、要は「メチャクチャ感動したぞ!マオ!」ってことでしょうけど、外国人から見たサムライとか忍者のイメージってなんかズレていますね(笑)、ハリウッド版のゴジラなんかも凄いズレていました。

 

浅田真央選手は世界中の人を感動させました。中国であれほど浅田真央選手への応援コメントが多いとは驚きましたね。ですが「本当に良いものは思想とか歴史とか宗教とかの違いや反発などを超えて人の心に響く」ということを久々に確認できて良かったです。

 

真央選手の透明感、健気さ、一生懸命さ、素直さ、優しさ、気遣い、どれをとっても素晴らしいわけですが、彼女は「人はこうあるべき」とか「何らかの思想や価値観」などにこだわって正しさや善を主張したわけではありません。そういうことは一切していないのです。

 

今を一生懸命に生き、自身の負の感情を乗り越えた」、ただそれだけです。そして、敵対的な他者をあざけったり馬鹿にせず、批判や心無い言葉にやり返すようなこともせず、

 

素直に優しく世界を見つめ、自身と真っ直ぐに向き合い、潔く前を向いて彼女の今を一生懸命に生きている姿を見せただけなんですね。

 

「健全さ」や「正常」を主張する人は多いですが、「健全さ・調和・そのものある人」は非常に少ないのです。まぁだからこそ社会は不調和で機能不全状態になっているわけですが。

 

それぞれの国・政府がそれぞれの「正しさ」「正常」「善」を絶対基準として、「間違い・異常・悪・不健全」を観念的に一方的に決めつけて権力を使って攻撃してる姿というのは、「それ自体が醜さ・不調和・破壊性そのもの」です。

 

社会悪と戦うと言いながら、無実の一般市民を何万人も虫けらのように殺したアメリカ政府のように、そして本当にむごいやり方で虐殺をしまくった中国共産党のように、

 

「正しさ」「正常」「善」を言いながら「それ自体が醜さ・不調和・壊性そのもの」である矛盾した姿は、まさに人間の歴史そのものです。

 

そして国民の税金で手厚く養われ守られている多くの役人が、自己保全と権力争いに明け暮れて無駄な税金を大量に使っている一方で、未だにこんな現実に置かれている国民が沢山いるのです。以下のような状況は一体いつまで続くのでしょうか?

 

「震災関連死2900人超=福島突出、「直接死」上回る〔東日本大震災
3年〕より引用抜粋

東日本大震災の発生後、避難所や仮設住宅で体調を崩すなどして死亡し「震災関連死」の数が岩手、宮城、福島の3県で2900人を超えた。

東京電力福島第1原発事故の影響で住民避難が続く福島の人数が突出。の2年後に死亡する例もあり、県のまとめでは26日現在で1664人に達し、地震や津波による直接死(1603人)を上回った。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ href=”http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140226-00000074-jij-soci

 

そして以下の記事もちょっと意味深な記事ですね。

 

「原因不明の頭痛、耳鳴り=長期避難でストレス―福島の女性〔東日大震災3年〕」 より引用抜粋

「震災関連死」が増え続ける背景には、不自由な避難生活の長期化によるストレス増大がある。福島県では、今も2万8000人が狭い仮設住宅での生活を続け、体調を崩す例が後を絶たない。

「頭ががんがんし、目まいや吐き気、耳鳴りもする。どうしたんだろうと不安になった」。

福島県相馬市の菅野アサ子さん(72)の体に異変が生じたのは、震災から1年10カ月後。仮設住宅で暮らしていたときだ。菅野さんは津波で自宅を流され、避難所の市総合福祉センターで3カ月間過ごした。

水道や電気が使えるセンターには住民が押し寄せ、避難者は最大1100人に。通路、会議室などに人があふれ、「男も女も35人くらいが一部屋にいた。

寝る場所は長布団1枚分しかなかった」と振り返る。  同居の長男=当時(44)=は津波で亡くした。

その後入居した6畳足らずの仮設住宅では、弁当も喉を通らず、息子の遺影に話し掛けなら寝てばかりいた。「歩くこともないし、話をするのも巡回のお巡りさんだけ。何もや気が起きなかった」。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ href=”http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140226-00000076-jij-soci

 

チェルノブイリの例では、被爆による死者は約4000人位と言われていますが、因果関係の証明が難しいために事務的に処理された死者は多数存在するでしょう。

 

これは日本の自殺者数もそうですね、変死の中にも多数の自殺者がいるでしょう。なので実際の自殺者数はもっと多い数になると予測されます。

つまり、今でさえ世界的に自殺率が突出している国なのに、実数ではもっと多い可能性があるわけですね。(ただ変死者の半分を自殺に含めるのは多過ぎでしょう、おそらく変死に含まれる自殺者はそれほど多くはない、と推測されます。)

 

そして自殺の大半は「うつ」であり、「うつ」の大半が精神的ストレス・社会要因を含むものです。変死者の一部を含めれば「毎日80~100人は常に自殺で亡くなっている、そんな社会状況でしょう。

 

ではなぜ「毎日80~100人の国民が自殺で死んでいる」という深刻なリアルに、もっと力を入れて根本的な対策をしないのでしょうか?それは、「自殺」は深く分析すればするほど「社会要因」がその根底にあるものだからです。つまり「社会そのものの負の力学」に行き着くわけです。

 

「不都合な真実」には蓋をして隠しながら「社会正義を守る側にいる」ことを権力は演出しているのですが、「社会正義を守る側にいると演出している人間たち」が、実際はどれだけの不条理や権力的な横暴さに満ちているのかは、現在の社会を見れば明らかでしょう。

 

ではここで、「金メダルをとった羽生結弦選手の記事」を紹介しますが、浅田真央選手と同様に、彼らの心ある姿は政治屋たちとは本当に対照的です。

 

国のため、国民のため」とか言ってる人ほど、自己保身と名誉や権力の維持拡大しか考えていないし、何の感動も良き影響も国民に与えていないですね。国民の税金だけはたっぷりと遠慮なく消費していますが。

 

「ゆづの恩返し」報奨金600万円は被災地へ寄付 より引用抜粋

ソチ五輪日本選手団の橋本聖子団長(49)ら役員3人と選手7人の計10人が25日、東京都内のホテルで帰国会見に臨んだ。

フィギュアスケート男子金メダルの羽生結弦(ゆづる、19=ANA)は、日本オリンピック委員会(JOC)などから給付される報奨金の使い道を尋ねられると、11年3月に発生した東日本大震災の被災地支援などに充てると即答。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://sochi.headlines.yahoo.co.jp/sochi/hl?a=20140226-00000055-spnannex-spo

 

 

「健全さ・正しさ・美しさ」の心理

 

人にとっての「正しさ」「正常」「善」「健全さ」らしきものが、観念や理屈ではなく「姿」としてリアルに本当に伝わるものとして存在するのなら、それは真央選手の姿に感じたような、それそのものの姿から伝わるもの以外にないのではないでしょうか?

 

私たちが見習うべきは、「正しさ」の主張だけに熱くなって「嫌悪・批判」で排斥を強め、大義名分や正論を盾にして対象を徹底攻撃するような独善的で思いやりのなさに無自覚なの姿ではなく、「それそのものの姿から伝わる健全さ」でしょう。

 

まぁそうすると、一部の政治家を筆頭に、踏ん反り返って善や正義を振りかざしている連中など殆どが「不健全」ということになりますが、残念ながらそういうものでしょう。

 

観念・思想を変えてもその個人の内的状態は変わらない

 

『 過去に「A」という観念・思想を信じていて、「A」に反する「B」という観念・思想を否定していた人が、やがて「A」に深く幻滅し、今まで否定していた「B」を信じるようになり、そうすると今度は「A」を徹底的に攻撃する 』

 

という心理は、世間ではよく見受けられますが、これは、「自らが信じ同化する観念」を置き換えただけで「自分が別物になった」と思っている心理です。

 

ですが、どの観念を正しいとするか?への「こだわり」よりも、もっと目をむけることは、「今どのような姿なのか?」を「立体的に理解することそれ自体にある」のです。

 

例えば「過激なネット左翼」と「過激なネット右翼」は「主張・価値観」は正反対で異なりますが、「今どのような姿なのか?」は実は非常に似ていて同質なんですね。

 

平和主義者が100億人集まっても地球は平和にならない」という意味もここには含まれています。平和主義者であることと、その人それ自体が平和であることは必ずしも同じではないからです。

 

これは大事なポイントですが、何かの観念を信じる方向性にせよ、否定する方向性にせよ、価値判断の基準を変えただけでは、「その人自体の本質的な姿」は「内的には全く変わってはいない」のですね。

 

単に全否定する方向性の場合は、別の観念で否定することで「麻痺」させているだけなので、「その人の基本的な傾向」はむしろ無自覚化されたまま継続されるのです。

 

特定の観念に一体化・同化しやすい」「何か一方を絶対なものにしたがり、立体的見る視野がない」、「自分とは意見も主張も異なる多くの他者を配慮する気持ちにけてい」という傾向こそが、「病的な不調和」を生み出す原動力なわけですね。

 

仮に、「B」は「A」よりは理にかなった有効な観念としても、AもBも本質は相対的なものなのです。なので「囚われずに全体性としての現象・存在を見つめる」という視野を見失ってしまうと、分離的で排他的なものに変質してしまうのです。

 

「観念・思想そのもの」の理論的な優劣や有効性の差異は確かにあり、中には有害で病的と言える観念も世の中にはありますが、観念・思想そのものだけで「その人自身の健全さ・正しさ」を決定できるとは言えないのです。

 

一般の多くの人の主張・観念 =「正しさの絶対基準」ではありません「健全正しさ」は、現実の姿そのものの中に感じられるもであって「一般の人の主張・観念を共有していれば正常、健全ということで」わけですね。

 

健全・正しさ・正常」という固定的な絶対的実体があるわけではありません。ですが、「現実の姿そのものに調和・美が在る時」、その瞬間瞬間の姿の中に「普遍的な何か」を私たちが感じとる、ということは確かなのですね。

 

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