「霊的なパイプ」とは何か  ミーム・遺伝子・集合的無意識 

 

体感的検証シリーズのpart3です。今回は「霊的なパイプ」がテーマです。「霊的なパイプ」という表現は、このブログ読者の何割かいる精神世界系の人向けに敢えて使うわけですが、本来こういう概念を私は好んで使いません。

 

「霊的なパイプ」というものが内的に感じ取られることは、ある種の人々にとっては常識であり、そして実はこの概念はその他の多くの霊的な感覚に密接に絡んでいるものであるため、今回ピックアップして検証する記事を書いたわけです。

 

そして「霊的なパイプ」というものは「無意識」と密接に関係していると考えますが、「無意識」というものを変性意識で内観的に体感するとどのようなものなのか、というと表現が難しいので先にミームと集合的無意識と遺伝の関係性から書きますね。

 

R. ドーキンスの言う「ミーム」は集合的無意識の一部ですが、それはヒトの精神と文化により限定された集合的情報です。これに対してユングの集合的無意識は、ヒトの原始的な無意識も含んだものであるので、領域が広くまた情報量も多いのです。

 

「無意識」は個人的なものだけではなく、集合的な情報を共有した巨大な意識ネットワークのようなものであり、集合的な形状記憶体とでもいうようなもので、それは原初的な「観念・元型」の作用から派生したもの、と捉えます。

 

ここでまず、理化学研究所のPDF「生体の科学」からの 引用文を参考として紹介しますね。

 

PDF「コンピュータの中の脳―情報基盤の進化論」より

システム進化生物学1)によれば,生命の本質は 「進化する分子ネットワーク」としてとらえることができる。ここでは,より一般化して0応答ネッ トワーク3とよぶ。応答ネットワークとは,外界から受ける刺激に対して,並列分散的な情報伝達の連鎖を介して応答するものをいう。 

生体にみら れる応答ネットワークには,免疫系,細胞シグナ ル伝達系,代謝系,RNA干渉系2)といった,分子認識の相補性で繋がっているものもあれば,神経ネットワークのように細胞線維で空間的に繋がっているものもある。

これらの応答ネットワークに共通する特徴は, R. ドーキンスが「利己的な遺伝子3)」で指摘した 0自己複製3がみられる点である。分子ネットワークはゲノムを介して複製され,

ニューラルネットワークは文化的なミーム3)を介して複製される。これを永続的に繰り返すことで,応答ネットワー クは進化し続けている。

ー 引用ここまで ー

引用元 ⇒  コンピュータの中の脳―情報基盤の進化論

 

 

上記にもあるように、「分子ネットワー クはゲノムを介して複製される」、つまりこの部分は「ハード」の複製になります。そして「ニューラルネットークは文化的なミームを介して複製される」、これが「ソフト」の複製になるんですね。

 

複製のために必要な「模倣・転写」は、「脳による同期」によるものだけでなく、私は他にも外界の情報を「同期」させる機能があることを予測した記事を前に書きましたが、まだ全てが科学的には証明されているわけではありません。

 

これはミラーニューロンだけでは説明がつかない、様々な情報の伝達と感受が感性的に確認されるから書いているわけです。

 

「ハード」「ソフト」は、それぞれに異なる遺伝方式を使って双方が複製を永続的に繰り返すことで、生体の「応答ネットワー ク」という内的な構造は複合的に変化・進化し続けているというわけです。

 

ですが私はミームと集合的無意識だけで内的な構造の全てを説明しうるとは考えていません。これらはより基本的な機能や無意識の構造を概念的に説明しているに過ぎず、

 

実際のところは「ソフト」の形成というものは、より複雑で多角的・複合的なインプットとアウトプットの過程を通して総合的に形成されるものであり、

 

また「ハード」と「ソフト」だけで人間が構成されているとするならば、それは機械論的な唯物論的人間観ですが、私は「ハード」と「ソフト」だけではないと考えているんですね。何故そう考えるに至ったかというと、単に思考分析による仮説だけではなくて、感性による体験的なものがそこに絡んでいるわけです。

 

システム進化生物学は領域を限定すれば正しいものであると考えていますが、別の角度からの心・精神の形成過程も重要であるという認識を私は持っているので、さらに複合的なものとして人間存在を見ていこうとしているわけです。

 

 

「霊的なパイプ」とは何か

 

ちょっと本質的な表現になりますが、ヒトの意識は全て「変性意識の一種」でもあるわけです。純粋な意識と言うものは原初の生命意識のみだからです。

 

ですがこのブログで「変性意識」という時は、「ヒトの統合された意識状態」つまり「知・情・意の統合された顕在意識」を基準にしています。

 

その統合状態が壊れた時あるいはバランスを変化させた時に現れるものを「変性意識」と定義して扱っていますので、今回の記事での「変性意識」の意味と混乱しないようにして下さいね。

 

私たち人間は生まれたばかりの頃は、自他の区別も明瞭でない変性意識状態からスタートするわけですね。そこから徐々に自他の区別が明瞭になり意識が統合されていくわけです。

 

生まれたばかりの頃はまだ社会化されておらず、ソフトもインストールされていないため、幼児の意識内には「物凄い時間をかけて地球で形成された生命記憶」と、その過程で培われた「ヒトという種を条件付けている原初的な意識が混合し、それがまだ未分離な状態にある、と考えているわけですが、

 

比喩的にいえば幼児は妖精(未ニンゲン)そのものであり、アニミズムの世界をリアル体感するシャーマン、あるいは太古の人類そのものの初期設定状態の意識とも言えるでしょう。

 

これをヒトの原初的な「自然自我」の状態と定義して話を進めると、自然自我は、本能優位な原始的無意識状態から投影されたものですが、少しずつ他の無意識の機能が発達していくことによって原始的無意識状態との一体化から自他が区別されて自意識が生じ、

 

さらに無意識の機能が分離しながら発達する過程でヒトの自然自我は育まれ、この諸機能が分離され顕在意識下に統合されながら、同時に自然自我を社会化し条件付けていくことで「社会的自我」が形成されます。

 

ここでちょっと過去現在までの世界と日本の「人口の推移」の話をしますが、研究者によって算定した旧石器時代後期の世界人口推定値は約220~300万人程度と言われていますが、これが旧石器時代前期だと僅かに12万5千人程度だと推定されています。

 

以下の図は日本の縄文時代からの人口推移のグラフですが、縄文時代は僅か2万~30万人程度のヒトしか日本列島に住んでなかったわけです。ミームは原初的な集合的無意識から分化した「より人間的な集合的無意識」であるため、

 

集合的無意識の一部ではあるのですが、ミームがヒトに大きな影響を与えるものとなるにはヒトの数がもっと増え、精神文化の発展が必要なんですね。それ以前の太古の人類は、もっと原初的な集合的無意識を共有している状態が長く続いていたのではないかと推測します。

 

図の引用元 ⇒  社会実情データ図録

 

 

 

ユングの「集合的無意識」とは、ヒトが太古からの膨大な時間と生の中で繰り返してきた経験・記憶のパターンが 遺伝子に転写され引き継がれ、それがヒトの先天的な意識に投影されることで 形成されるものを感性的に捉えた表現ではないか?と私は考えています。

 

遺伝子によって引き継がれるものは、身体や気質などのパターンだけではなく、これは「個人的な血縁者の遺伝情報」とは異なり、もっと非個人的な「生物学的な、ヒトという種的な、あるいは民族的な単位の遺伝情報」であり、

 

そして「集合的無意識」を表現しているものが「元型」と呼ばれるものであり、元型そのものは力動作用として心に現れ、元型が心に作用すると、パターン化さ れた「イメージ」や「像」が認識されることがしばしば起きてくるのです。

 

例えば子供が「世界共通の普遍的なパターンの夢想」にふけることがよく見受けられ、このような子供が好む神話や物語において表現されるモチーフや シンボルなども、深層心理学的には元型と見なすことができるとユングは語っている。

 

つまり赤子の意識はゼロでも無でもなく、ある種の内的な原初的なイメージを先天的に持っている、ということですね。そしてこの内的な原初的なイメージは元型によって生じるものであり、これがあるから外側の世界と内側の世界をすり合わせていくことがスムーズに出来る、というわけです。

 

社会化される前の幼子の段階では元型イメージは生き生きと感じられる強力なものでしょう。子供、特に幼子はある種みな変性意識状態であり、内界と外界の区別、自他の区別はまだ明瞭ではなく、世界をアニミズム的な精霊的なまなで見ています。

 

つまりこれは生命意識のフォーマットのプロセスのようなものです。ヒトの種に最適化するために遺伝子によって原初の生命意識を枠組み・条件付け、そして初期するわけですね。

 

「他の動物にも元型があるのか?」と思うかもしれませんが、犬や猫にも「種としての元型」が生じていると推定できます。

 

霊的な人々は「元型から投影される印象」を変性意識でビジョンや像として見て、それを霊とか魂とか精霊とか神とか言ったりしていますね。そしてこの場合のシンボルは集合的なものなので普遍的なパターンに分けられますが、

 

霊的な体験は全てが集合的無意識の元型によるものだけではなく、個人的な無意識の記憶の投影作用や、単純な錯覚・思いこみだけの場合もあれば、個人と集合的なものの両方が重なっているような場合もあります。

 

どちらにせよ「霊的存在」などというイメージ・印象や「実体性を感じさせるうな霊体」が、他次元や外的世界に客観的に実在しているわけではありません。

 

ですが様々な集合的無意識の情報を感受することによって、その感受したものに個人的な記憶イメージが投影されて「想像的な生命力」を与えられると、あたかも生命体のように外的な存在として意識内に写しだされるわけです。

 

成人後に「元型による神秘的な経験」をする状態というのは、「退行的で分裂的な意識の状態」によって起こるのであり、それは無意識の諸機能を「部分」として分離しながら統合して成長していく自我の成長へ向かう発達方向が、再び「無意識全体の一部分の機能である原始的無意識と一体化する」、つまり「退行する」ことで起こるんですね。

 

 

 

そして集合的な無意識と個人的な無意識とは相互に影響を与えあっているわけです。「自他の個人的な無意識」の相互関係でも濃い浅い、合う合わないはあります。 これを人は普段、半無意識的に直観的に判断しています。

 

より関連が深く「無意識の情報の質」が似ている者同士はアクセスが頻繁に生じ合い、それによって個人的及び集合的情報が相互に転写及び伝達されるのですが、この「情報の質」が「文化的内容」であるものをミームと言うわけです。

 

 

「霊的なパイプ」の正体

 

ようやく霊的なパイプにまでたどり着きましたが、先に書いたように無意識情報の質が似ている者同士はアクセスが頻繁に生じ、それによって個人及び集合的情報が相互に転写及び伝達される

 

この情報の流れを感性的に捉える時、オカルト的にラベリングすると「霊的なパイプ」という表現、あるいは「波動を感受する」「精神の波長が似た者同士が惹きあう」というような表現にもなるわけです。

 

神社や寺のような古来から存在する伝統宗教は、日本人の文化と調和している元型的なものであり、このミームは基本的に日本人の意識と親和性が高いのです。

 

よって集合的情報が相互に転写及び伝達されることが起き、「神霊のエネルギー」を感受するような現象が起きるわけですね。では何故、強いエネルギー感を感じるのかと言えば、元型は「無意識における力動の作用点であり、意識と自我に 対し心的エネルギーを介して作用するからです。

 

ここで重要なのは「心が開いていること」「対象を信じて素直でいること」であり、その時、より共感的な状態であるために集合的情報にアクセスしやすくなり、情報伝達が相互に生じやすくなるわけです。

 

カルト系新興宗教信者などが「教祖と組織に対する狂信と敵対者への異常な排斥」を何故必要とするのか?それは文化と調和している元型の力を持たない「閉じたミーム」であるため、その影響効果は小さく浅く、

 

他の「本当に力のあるミーム」からの作用を徹底排斥し一極集中させることでしか、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用出来ないからです。

 

彼等は反対者や離脱者に対して「悪魔・魔道」「動物霊・邪霊」「地獄に落ちる」「波動が悪い」「罪・汚れ」「意識レベルが低い」「爬虫類人種」「闇の住人」「イルミナティ・フリーメーソンの手先」など極端な悪者指定をして罪悪感や恐怖で内部束縛しようとしますね。

 

それは信者の信念、つまり無意識を支配コントロールするには、過剰な称賛と過剰な否定、過剰な同一化と過剰な排斥以外に方法がない、その程度の本質力しか持たないからなんですね。

 

ですが「狂信する者」にとってはある種の「霊的な繋がり」=「無意識の同期」が生じるので、そこに「霊的なパイプ」とオカルト的に形容される情報伝達が起き、

 

霊的な自我肥大者の無意識と同期することで、「自分が大きくなったような、気・やる気が出てくるような自我の肥大感による錯覚の自信」が生じるという深層心理学的なメカニズムなのです。

 

何故人はカルトや新興宗教に入るのか?

もし仮に全ての集合的な無意識からあなたが切り離された場合、ある種の「内的な繋がり」をあなたは失い「内的な村八分状態」になり、エネルギーを喪失し、おそらく強い孤独感と卑小感、「取り残された感覚」が湧き起こることでしょう。

 

これはあまりに特殊な個人的無意識を強力化し排他的な意識を形成した場合には、実際に起きてくると深層心理学的に考察されます。

 

このような状態が長期間続いた場合、根なし草としての自我は「自身を投げ出繋がる元型的な要素を持つ対象」を無意識からの欲求によって探し始める、ということですね。その対象がたまたま異常な霊的指導者=教祖・グルなどと言われる人である時、先に書いたような現象が起こるわけですが、

 

ですが仮にそういう状態で「自身を投げ出し繋がる元型的な要素を持つ対象」を探さなかった場合、そのままではいずれ廃人や狂人、犯罪者のような状態になるかもしれません。

 

何故かというと存在の「内的な飢え」は自我を崩壊させる作用が強いからです。人は脆いものなんですね、そして人は個人であるだけでなく本質的に「集合的存在」なんです。

 

だから本当の意味で「内的に完全孤立した個人」になると、外的な孤立状態だけの人以上に壊れやすくなるんですね。そういう時「退行」が生じ、人は自我発達とは逆方向へ向っていくわけです。

 

そしてこのとき、ある種の「懐かしさ」「故郷に帰る」ような感情や「安心感」が生じるかもしれません。 それは長い間「孤立」し存在は「内的な飢え」の状態でさ迷っていたあなたが、ようやく「自身を投げ出し繋がる元型的な要素を持つ対象」に辿りつき、集合的な存在に復帰出来たと感じるからです。

 

あなたはこの集合的な存在に復帰出来た感覚を「自我の救済」と錯覚し、教祖に対して「子供じみた退行的依存」を開始するわけですね。 ですがそれは全て「まやかし」の感覚というわけです。

 

現代は共通の公的な共有シンボルが存在しません。なので自分が一体化し繋がる感覚を得ることが出来る「元型的な要素」が非常に少ないんですね。

 

多くの場合、集団との一体感を人が求める理由は、この内的な繋がりと孤独感への恐怖が原因なんです。なので人は「無意識の質」が似たものと繋がろうとするわけですが、その質のタイプによっては既存の社会システムや文化と上手くマッチングしないものもあるわけです。

 

つまり人がオカルト系の新興宗教的組織を求めるのは、現代社会には不足したを強く感じて「内的に孤立化した無意識」には「集合的な内的な繋がりと一体感を再び取り戻したい」という自我の本能的欲求が働いている、ともいえるでしょう。

 

「無意識は誰もが繋がっている」と前に書きましたが、「集合的無意識」の共有体験、それが希薄になっているのが現代社会、ともいえるんでしょうね。

 

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