春夏秋冬と生の詩

 

随分と久しぶり(半年ぶり)に、一気に昨年に下書きした記事を編集して更新しました。今年もゆっくりマイペース更新の予定ですが、

 

時代も平成から令和に移行していくし、このブログも今まで扱ったテーマとは異なるものを考察していく方向へ、ゆるやかに移行していく予定です。

 

ではまず一曲、「ONE OK ROCK」でWherever you are、です。いい声してますね~♪

 

【ONE OK ROCK】 Wherever you are piano ver.

 

春夏秋冬の1サイクルで人生を見れば 私たちも生まれ  いつかこの空間からいなくなり こうやって生きて在る時間は 終わりに差し掛かれば「一瞬」のことだろう

 

静かに 確かに伝わる何かを感じる中に そのまま真実の詩は宿っている  それがどんな音か どんな色か どんな肌触りなのか どんな味なのかは

 

瞬間瞬間に心をそのまま映しながら変化していく

 

「ない」という心はそれに触れることはなく 「ある」という心もそれに触れることはない

 

物質への還元によって得られたような客観的な知も 見えないものへの信仰による主観的な感覚も 「見た目の異なるよく似た盲信」に過ぎない

 

いずれもそれに触れることはなく どちらも見過ごし続けることに変わりはないのだから

 

だがどのように豊かで人生を謳歌し自由に感じていようが  「死」によってすべてはゼリセットされる

 

生の終焉によって その一時の自由感も 積み上げた知識も技術も所有した全ても 何もかも失い  そしてそれを得ていた「主体感」それ自体も破壊される

 

あなたはあなたを失い あなたを見ることも感じることも出来なくなる

 

長い時の流れは 「あなたがいたこと」も「その記憶を持つ他者」も  あなたに関する全ての情報・記憶が失われる  その時、「あたたは本当にいた」といえるのだろうか?

 

存在したのだろうか? その証拠も形跡も一切がどこにもない世界に

 

今ここに在るあなたは確かに存在しているだろう、そう感じているだろう

 

でもその事実性は 「それを見るもの」が存在せず  一切の形跡も記憶も残っていない世界では 「事実自体がもはやどこにもない」

 

ではここに一定期間だけ存在していたように見えた「他者」とは 「存在」とは一体何なのだろうか?

 

絶対的な「事実」など存在しない世界において  その内奥にある「真実」とは何だろうか?

 

在るかのように立ち現れる無常なる現象という「事実」を 根底で生み出し続け それ自体が変化しない それ自体である何か

 

 

 

春の詩にも命があり終わりがあるように 自我は何もわからないまま生じ そして生と死の本質は何もわからないまま死んでいく

 

桜の花が散るように わたしたちはみないずれ消えていく  何かの表現を確かに互いに感じていた あなたもわたしも共に

 

わたしたちが知ることが出来ること そして知ったことの中には永遠に含まれない真実が 常に見過ごされ続けていく

 

かつてこの桜を見た無数の過去の人々が 今はもう此処にはいないように いずれ未来に名も知らぬ誰かがこの桜を見る時 そこに私たちがいたことはもう跡形もない

 

何もわからない中に 何もないかような一瞬一瞬に詩は宿り ただ此処にいて 共にあること そして互いに生を表現し

 

それを互いに心に映しながら静かに見守るなかに  生の詩はただそのまま生きている

 

知らないことを知らないままに わからないことをわからないままに ただそのままにあるその眼差しが生の詩に触れる

 

 

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