フランス革命とパリオリンピック

東京都知事選が何となくGANTZっぽい感じのカオスに思えたのですが、フランスのオリンピック開会式を見て、こっちの方がずっとGANTZっぽいなぁと感じました。しかしフランスのあの手の「過剰さ」って、一周回って実にありきたりで普通だなぁともおもうんですね。

パリコレもそうですが、「前衛」を過剰に意識するほど独りよがりになってて、むしろ「凡庸な過剰さ」になっているという感じ。その意味ではパリコレもポリコレも変わりません。ポリコレもいかにもサピエンスらしい「凡庸な正義&道徳」を振りかざす意識高い系のチープな啓蒙。

パリコレ的な「前衛」よりも、「無課金おじさん」のようなラフさの方がずっとカッコいい。無課金おじさんがあの格好のまま、R.L.バーンサイドの最高のリズムと共に歩く、そういうパリコレなら身体が痺れます(笑)

あるいは、R.L.バーンサイドの最高の曲たちをかけ流しながら、ボロボロのアメ車でアリゾナを疾走する無課金おじさんが見たいところです♪

 

 

フランス革命とパリオリンピック

 

フランス革命はブルジョア革命とも呼ばれる。革命の結果、旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊し、貴族や高級聖職者が権力を失い、商工業や金融業を営むブルジョワジーが新たな支配層となった。

ブルジョワは、旧体制においても一定の経済力を持っていましたが政治的な権利はほとんどなく、その一方で貧民階級は重税や徴兵に苦しみ、生活は非常に厳しいものだったといわれています。

革命が進行する中で、ブルジョワは政治的権利を求めて積極的に行動し、旧体制を打破するための主要な推進力となりましたが、革命後も貧民階級の生活は大きく改善されず、ブルジョワが新たな支配層として台頭することになった。

このように、フランス革命はブルジョワと貧民階級の対立を背景に進行しましたが、最終的にはブルジョワが新たな支配層となり、貧民階級の状況は大きく変わらなかったといえます。

革命後も重税や徴兵が続き、特に農民は厳しい生活を強いられ、また、フランス革命後の戦争(ナポレオン戦争など)によって多くの犠牲が出たことも事実です。

 

ここで、『フランス革命についての省察』の著者であるイギリスの政治家のエドマンド・バークに関連する外部サイト記事を紹介。

 

「第3回 フランス革命に対する二つの態度~バークとカント」 より引用抜粋

バークが批判したフランス革命とは、どのような「不調和」によって引き起こされた事件だったのでしょうか? 革命に至るまでの流れを簡単に見ておきましょう。

ここは重要な点ですが、まず、フランス革命は、横暴な専制君主に対して、人権意識に目覚めた市民(ブルジョワ)が自覚的に引き起こした革命などではありません。

(中略)

バークは、その存在を自分の「外」にある〈意識を超えたもの=大いなる他者〉に見出しているのに対して、カントは、自分の「内」にある〈理性が作り出した理念=個人を導く理想〉に見出すのです。この「外」から「内」への視点移動、これが後に、自己を超えるものとしての「伝統」(外)を説くことになるバークと、その反対に、「個人の自律」(内)を説くことになるカントの本質的な違いを形作っていくことになります。

そして、それはそのまま、フランス革命の際に示された、プライス博士と、バークとの違いに重なってくることになります。

「人間界における全般的改善がはじまりつつある。国王の支配は法律の支配に変化したし、また僧侶の支配は理性と良心との支配に道をゆずりつつある」(『祖国愛について』前掲)と語るプライス博士の目が、あくまで、世界を作り出す人間の「内なる理性」に注がれていたのだとすれば、バークの眼差しが向かっていたのは、つねに自己の外にある「内省を超えるもの」、すなわち「自然」だったのです。  – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 第3回 フランス革命に対する二つの態度~バークとカント

 

フランス革命と似ているとされるのが「明治維新」ですが、明治維新後の経済発展に伴い、商工業者や金融業者(いわゆる財閥)が次第に影響力を持つようになったのは事実で、似ていますが、後者は武士階級が主導した革命であり、商工業者や金融業者が直接的に権力を握ったわけではありません。

「領主の権力からブルジョワジーの権力へ」という市民革命の定理は、フランス革命には当てはまりますが、明治維新には完全には当てはまりません。 また、明治維新は「平和な革命」であるかのように語られることがありますが、全体としてその過程をみるならば相当に血塗られた革命です。 ➡ 明治維新とフランス革命の類似 - 日本史の独自性神話批判 -

 

しかし両革命ともに、旧体制の権力が破壊され、新しい支配層が権力を握ったという点は共通しています。 両革命の基本的な原因が財政問題にあったという点も。

フランス革命ではアメリカ独立戦争の戦費が財政を圧迫し、日本では幕府の財政赤字が問題となりました。そして、明治維新が外部要因によって起こされた革命ではないという主張は一部正しいですが、外圧が内部要因に作用して変革を促進したことは無視できません。

 

フランス革命は確かに封建制を廃止し、旧体制を打破した。封建制の廃止により、貴族や聖職者の特権が取り除かれ、土地の所有や税制が大きく変わった。そのマクロな運動の流れには全否定も全肯定もできない両義性があるとはいえ、

フーコーの「牧人権力」の観点から見ると、フランス革命後の新しい権力構造は、宗教とは異なる形で個人を管理し、導く力を強化したともいえるでしょう。

 

以前にも紹介したアメリカの社会哲学者のエリック・ホッファーの言葉ですが、「明確に特定できる悪を抑圧すると、その代わりに、広く蔓延する悪、生活の隅々まで伝染する悪がそれにとって変わる危険性が常にある」 というのは、「神」にも同様のことがいえるでしょう。

「神」を殺し、「大きな物語」を解体していくと、その代わりに広く蔓延する神、生活の隅々まで伝染する支配的な何かがそれにとって変わる、ということ。

 

革命後のフランスでは、国家が市民の生活を詳細に管理し、教育や軍事、公共衛生などの分野で新たな形の権力が行使され、これらの制度は、個人の行動や思考を監視し、統制する役割を果たしました。

これは「解体された神」が、むしろ全く見えないまでにミームに溶け込んで思考の型に沁み込んでいる、ともいえます。「神は死んだ」はある面から捉えた象徴的な表現ではあるけれど、根源的な元型である神は本質的に殺せない。その意味で神は不死。

したがって、フランス革命は封建制を廃止した一方で、牧人権力を新たな形で強化したと見ることもできる。それは神の絶対性を別の形に変容しただけ、ともいえます。だから欧米のやることはけっきょく本質が変わらず、どこまで微細に解体しても、キリスト教成分が骨の髄まで染み込んでいる。

有史以来、この世界で最も他者を殺し迫害してきたキリスト教徒たちは、「モンスター加害者」でありつつも、異教徒・異文化の暴力性をやたら啓蒙し抑圧したがる。その独善性・独裁的な姿は啓蒙思想や先鋭化した活動家の暴力性とよく似ているし、牧人権力も同様に、回りくどい形で他者を囲い込み管理し、領土化し続ける。

 

「地獄に行くのが怖いから…」男の子たちが受けた性的虐待 より引用抜粋

2021年10月、フランスでは、ある報告書が発表されました。報告書をまとめたのは、フランスの司教の団体などが立ち上げた独立委員会。世界各地でカトリック教会の聖職者による未成年者への性的虐待が明らかになっていたことを受けてのことでした。

その報告書は、フランスのカトリック教会で、1950年から2020年にかけて、少なくとも2900人から3200人の聖職者が、未成年者に対して性的虐待を行ったと推計しています。

被害者の数は21万6000人に上り、その8割近くが男の子で、被害を受けた時の年齢は、10歳から13歳に集中しているとしています。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「地獄に行くのが怖いから…」男の子たちが受けた性的虐待

 

福音派のキリスト教シオニズムと迫り来る世界の終わり

キリスト教的なアイデンティティとライシテ:現代フランスにおける極右政党の試み

 

パリ五輪開会式の演出が「キリスト教徒への侮辱」だと批判する声明をバチカンが出しましたが、こういうのもまさにそうで、「正しさ(とその人たちが信じているもの)」を振りかざす側のほうに、エンタメ的な演出の暴力性なんて可愛い次元ではない本物の暴力性があるということに無自覚。

オリンピック開会式がディオニュソスだの悪魔的だのいっても、ギリシャ的な豊饒さもリアル感も凄みも無く、左翼のプロパガンダとかなんとかいっても、所詮はパロディ的な涜神ごっこで、エンタメの次元に過ぎないものでしょう。

そもそも「青いおじさん」が踊った程度で「神」が汚されるというのであれば、そんな神は脆弱&無力過ぎてお話にならないし、人間とかいう「キングオブどうしようもない生き物」は救えないでしょう。

愚かな人間たちを救う能力も意志も愛もない分際で、神だのなんだの語っても説得力ゼロにもかかわらず、まだ威張っている。そんなものはパロディ的に扱われて当然だし、やってることが聖なのか俗なのかもわからないような有様で、「聖」ぶるなということ。

まぁ、悪ふざけするサピエンスの姿を見て、育ちの良いお上品なエスタブリッシュメントたちが眉を顰めたり苛立つのは、それもまたいかにもサピエンスらしい姿で同族嫌悪ではあるけれど、それらのサピエンスたちをまとめて丸っと飲み込んでしまうくらいの無意識の力は、今のキリスト教にはない。

いろんな方向から怒られが発生したパリオリンピックですが、私はバチカンも驚く悪趣味なバカチンなので、以下のようなデカチンの話題で大笑いし、今回のオリンピックはこれですべてよしとしました。