言語の権力性 「高度な言い訳」は言い訳とみなされない

坂本龍一さんが若い頃、自分の音楽や思想に対するこだわりが強く、気に入らないことがあると感情的になって暴力を振るうことがあったようで、タクシー運転手をボコボコにしたという話は彼自身が認めており、そのことを本人はとても後悔したようですが、

そういう話は知っていようが知るまいが、私の場合、それと作品はほぼ関係ないんですね。

そもそも芸術家というのはそんなに愛のある人ばかりではありません。凶暴だったり、他者を平気で傷つける人もいます。言い訳ばかりしている人、陰湿な人、傲慢な人、攻撃的な人もいます。所詮、人間、ホモサピエンスです。

私の母は美術の人で若いころから創作活動をしてますが、難の多い人だったんですね。

それは数十年に及ぶ負の作用をもたらしましたが、その背景は、心理学的な理解なくしては見えてこないものがあり、まずそこを理解するのにかなりの月日がかかり、それに加えて身体医学、精神医学的な視点から見ていくことも同時に必要で、それらの総合的な判断が必要でした。

子供の頃から様々な芸術家たちの身内への接し方、他者への接し方を見ていて、他の分野の人よりも「愛」が深いと感じることはあまりなかったです。結局のところ人それぞれで、中にはあまり思い出したくない記憶もあります。

芸術家も「個人の複雑さ」のほんの一面しか見ていない、ということはよく感じました。

一人の人間の中に、愛もあれば冷たさもある、優しさもあれば攻撃性もある、陰湿で汚いところもある、そのような両義性・複雑性でみていくなら、芸術家も例外ではないのです。

どのような分野にせよ、自分の専門分野だけを特別なものとせず、聖域化せず、フレーム内に閉じないほうがよいでしょう。そこから開いて、対象の複雑性をみていく。

「他者への愛」の文脈でいうのであれば、人の全体性、両義性をひっくるめて大らかに受け止めていたのは、むしろ「芸術家の周囲にいる非芸術家の人たち」であることも多かった。これは子供の頃はわからなかったことで、その後、他者との関わりをずっと見てきて自然にわかったことです。

その人たちはほとんど前面に出てこないし、自己主張もあまりしないので、存在が不可視化されやすいんですね。「芸術家の周囲にいる人たち」の方が、芸術家よりも精神が成熟し愛に深さがある人が多かった。

このパラドックスに気づくことさえないまま、「我こそは愛深き賢者」くらいに思っている人もいる。

「自己」「他者」「実存」「心」「存在」に対する美術・芸術における語りもまた、ひとつの視点であり、囚われでもあるものです。それでは見えない、見落とすものがあるということ。

ではここで一曲♪ Lou Reed「Perfect Day」です。ロック界のレジェンドで知的な人ですが、この方も神経質で攻撃性が強い人です。 とはいえヴェルヴェット・アンダーグラウンドの頃から好きな曲も多いアーティストの一人です。

 

 

言語権力

言語権力とは、言語を通じて他者に影響を与えたり、支配したりする能力や行為のことです。フーコーは、知と権力密接に関係しており、知識を持つ者が言語を通じて真理や規範を作り出し、それに従わない者を排除したり罰したりすることで社会を支配すると考えました。

言語の権力性は、小説や文学にも表れます。例えば、特定の思想や価値観を読者に説得したり、暗示したりする場合、プロパガンダやイデオロギー的な作品がこれにあたります。

そして特定の言語やスタイルを用いることで、読者に対して特定の印象や感情を与えたり、社会的な階層や集団を示唆したりする場合。そして言語哲学的な作品や前衛的な作品のように、言語そのものを批判的に分析したり、変形したり、創造したりすることで、言語のあり方や可能性を問い直したり、拡張したりする場合もそうです。

小説や文学は言語と権力の関係を描くだけでなく、その関係を形成する一要素でもあるといえます。

「記号」と「意味作用」の操作で敵(悪)と味方(善)に振り分け、一方的に断罪し続けるというやり方は、その構造自体を暴いていけばすぐにグラついてしまう程度のもの。

むしろその程度のものだからこそ「批評」「解釈」を権威化して独占したいのでしょう。「批評」「解釈」を平等化するとひっくり返されてしまうから。

このような構造は、「バイアス」や「差別」を考えるときも同様ですが、この問題はたとえば、『「○○は差別主義者だ」と解釈する人の中にある差別』を「見えなくする(隠す)」作用があり、

「解釈する側の中にあるもの(隠されたもの)」が問われないような防衛構造を保ったままで、一方的に特定の対象だけを批判できる構造になっているんですね。「バイアス」にせよ「差別」にせよ、「双方が問える」「双方に解釈が可能」なものであり、そうでないと危険です。

人文知がその権威性と共に「武器」として利用され、誰か(あるいは特定の属性)は常に絶対善で裁く側で、誰か(あるいは特定の属性)は常に絶対悪で裁かれる側、という固定された形を生み出す。こういった一方的な在り方が文化戦争に発展することもあります。

文化戦争の激化を防ぐためには、異なる価値観や信念を持つ人々が尊重し合い、理解し合うことが必要です。また、共通の目標や利益を見つけて協力することも重要です。

独裁者が気に入らない者や反発する者を粛清するかのような、そういう使い方をしたがる自己愛の強い人々は世の中にたくさんいるんです。また最初はそうでなかった人でも、それが当たり前になってくるとだんだん麻痺していく。だから「双方が問える」「双方に解釈が可能」にしておかないといけないのです。

 

「高度な言い訳」は言い訳とみなされない

ジョン・ロールズは、「人々が自分の利益や立場を知らない状態で正義について話し合うとしたらどうなるか」という仮定を立てました。この自分の利益や立場を知らない状態を「無知のヴェール」と呼びましたが、

この場合、「人々は最も不利な立場にある者にも配慮した正義の原理を選ぶだろう」と考えました。しかしこれは思考実験でしかありません。現実は「無知のヴェールがない状態」です。

つまり、「双方が問える」「双方に解釈が可能」という状態であっても、現実には「対等」ではなく、「権威のある側」に「正しさ」が偏ってしまうのです。

「それ自体を生きる人からそれ自体を奪う」、これは実際には不可能なことですが、しかし「それ自体を生きる人のようにみせる」ことによって、「それ自体を生きている人」が「不可視化される」≒奪う、ということは可能です。

「権威側からは見えにくい権威側の問題」は、それを持たない側からは見えやすい、だから「それを持たない側の語り」を低く劣ったものにして無視しておく必要が「権威側」のほうに生じます。

たとえばよく、匿名/実名、無名/有名、ベテラン/若手とかそういう二項対立がありますが、ここで「権威論証」がどのように「隠れた形で」使われるかをみていきましょう。

「○○さんは無名とか有名とかに関係なくその人たちと対等に向き合う、その姿勢は素晴らしい」というような語りがあったとします。

ここに「○○さんのような人は権威主義的な人ではない」という文脈があり、同時に「○○さん」という人が「立派な肩書のある年配者」という場合、それは「権威性の否定」を「権威論証で行う」という矛盾構造になっているわけですが、

さらに「○○さんのことを語っている人」も「その分野の肩書のある人」かつ若手ではない場合、「○○さんのようなこういう姿勢が一番素晴らしいのだ」という主張をさらに「権威づけている」わけです。

つまり「権威性を持っている側」が、「あたかも自分たちにはそれが全くないかのようにそれを使っている」ということ。だから「自己言及」は難しいんですね。

「権威を否定する話」を「権威を持っている人」がするそしてこの話も「権威」ゆえに世間に信頼される。「権威を否定する話」を「権威を持たない人」がしてもその話には権威がないゆえに信頼されない。

しかし『権威の否定的な作用を最も体感しているのは「権威を持たない側」』であり、その「身体のある語り」は信頼に値するものなのですが、権威がないゆえに価値を与えられていない、というジレンマ。

それを権威が拾い上げ、権威がその代弁者として世に問い、語ることで称賛を得る。その言葉だけが信頼され価値のある言葉となる。そして「身体のある語り」は存在ごと隠され、「それ自体を生きる人からそれ自体が奪われる」ということの悪循環に向かう。

 

権威、言語の権力性というのは「発話者」が有しているもので、「その語りの内容やその人の態度」にあるのではありません。

「このように語ったからその人には権威がない」とか、「このように平等に他者に向き合い評価しているからその人には権威がない」ではないんですね、そういう風に見てしまうと「権威」をむしろ不可視化してしまう。

「その言葉が何を隠しているのか」という問いかけが権威のある人によってなされるとき、たいていは「権威のある人自身のそれ」ほど問われない(問われにくい)構造になっていることがあるわけですが、これは「二重に隠されている構造」になる。

「言語の権力性が強く働いたままそれを気づかせないように語る」というのは、権威ある側ほどそれができる。しかし「権威がない人」にはこのような「二重に隠す」ということはできない。だから「信頼」には(最初から)大きな差異が生じてしまうのです。

「両者はそもそも最初から対等ではない」のですが、この権力勾配は不可視化され、「語りの内容」「態度」だけにスポットを当てることで「二重に隠される」。

この権威の「隠せる能力」が、「権威が他者から信頼される」ということにも繋がっている。そして逆説的ですが、このような「二重に隠されている構造」や「対等さの不在」をちゃんと見出す人だけが、「誰に対しても対等であれる人」なんです。

しかしこの「(本当の意味での)誰に対しても対等であれる人」というのは、「権威のある側」に否定されるんですね。何故なら「隠せる能力」を失ったら信頼される力も失う、それが権威だからです。

だから「対等」なんていっても、その手の人たちの語る「対等」とやらの話は、「条件つきの対等」に過ぎないのです。ほんとうに対等であるには、「権威が与えられていない者同士」か、「それが全く作用しない状況に両者が置かれているとき」でしか生じえないのです。

「権威」というのは、元から誰にでもあるようなものではなく、それは社会が特定の人に与えている価値なので、持っている人しか持っていない。たとえば子供や学生、無名の若手、匿名の者たちは、その語りに「権威」などなく、与えられていない。

仮に「権威を与えられた側」がどれだけ(気持ちや態度の上で)対等な話をしようが、その肩書、ポジションは社会によって構築されたシステムの内部にあるものであり、

その立場・資格ゆえの権限と社会的な信頼と承認を得て対価を得ている以上、それは対等ではない。少なくともその価値が及ぶ圏内においてそれは不特定他者に作用し続ける。

この圏内においては、「あなたは私と対等ではない」とはっきり言える人の方がむしろ正直で、言語の権力性を相手に自覚させつつ語る方が、(どちらかといえば)権力的ではない人です。

「それ自体を生きる人からそれ自体を奪う」というのはこの場合、「対等それ自体を生きている人から対等を奪う」ということ。「そんな位置にいない人たち同士」は「そもそも最初から権威性のない対等を生きている(生かされている)」のであって、

対等それ自体を生きる者は「対等であること」を「素晴らしい」などと評価されたりしないのです。幼い子供たち同士はみな対等ですが、それを評価されたりしないように。

「権威」を持たないゆえに意義のある語りとして聞かれることがなく、反対に「そのように見せる権威の言葉」は「とても深い素晴らしい語り」として聞かれるということ。

このような構造を、「上下を意識しているからそれがあるように感じられる」というような「心の問題」にすり替えることで、「権威それ自体」を守り続けるのも権威の側なのです。

ここで私は「権威をなくすのがいい」ということをいいたいんじゃないんですね、むしろ逆で私は「権威」は必要、重要なものだと考えています。

しかし、この権威が「それ自体を生きる人からそれを奪う」ことで、権威のない人を骨までしゃぶるようなえげつなさには我慢がならないというだけです。

このえげつない動きは、様々な分野で権威が失墜してきたゆえの反動でもありますが、権威が己を権威に見せないように擬態し続けてきた結果です。権威がただ権威であるということに耐えられなかったその自己嫌悪から、それ自体の姿を隠そうとし、人々によくみられようとしたためにより深い欺瞞が生じた。

「サンデルのような権威それ自体がサンデルの批判する能力主義的な世界を維持している」のであって、その語り自体がそれを隠す(隠せる)ことが、これまた権威あるゆえの言語の権力性なのです。

本来、「サンデルのような人」に向けて「下」から「上」へ語られるべき「身体の言葉」はスルーされ続け、権威側によって「上」から「下」に向けて語られる「啓蒙の言葉」にすり替えられる。それは「下」のためにあるのではなく、「上」の立場を維持するためのものなんですね。