脱コード化とルンペンブルジョワジー  

議論にはある程度のルールや前提が必要です。事実に基づく根拠や論理的な推論は、議論の質を高めるために欠かせません。また、議論の目的や範囲を明確にすることも重要です。

ですが同時に、同じ事実に基づいていても「解釈」は異なります。この「解釈」を特定の人々だけが勝手に決めるような形で行われる議論では、事実に含まれている両義性・複雑性が単純化されてしまいます。

そこを問うことすら許さない、というような在り方では、特定の人々が正しいとする答え以外は認めない議論のスタイルなのでやっても意味がありませんが、最近はそうなってきていますね、特にそこに党派性が絡む場合は顕著です。

最近こういう運動が目立ちます。「我々は、誰もが傷つかない人にやさしい社会を目指しています! しかし我々の理想・活動に反対をするものは徹底的に傷つける社会を構築します!」「誰もが生きづらくない社会を目指しています!しかし我々の気に入らない属性の生きづらさには一切考慮しない社会を構築します!」 みたいな自己愛運動。

 

ところで、「庇を貸して母屋を取られる」ということわざをよく聞きますが、綺麗な理念だけ追いかけて現実の両義性を見ないから、理想を断念するどころか理想とは真逆の強硬策をとるしかなくなる。日本が「移民問題」の両義性をしっかり見ず、ポリコレ文脈で解釈するだけなら、人口が多い分、北欧以上に複雑で深刻でややこしい状態になっていくでしょう。

デンマークのフレデリクセン首相(45)は女性で、労働組合出身の人権派だ。昨年秋の総選挙で中道左派与党を率いて勝利し、続投を決めた。その原動力となったのは、「まるで極右」と言われるほど強硬な移民制限策だった。 ➡   移民が変えた「寛容の北欧」 三井美奈

 

左側の野党や活動家と連携した先鋭化した社会運動、一部のフェミの「ジャイアニズム&男損女肥」の言語空間は、議論などもはや無用の暴走状態で、逆走、煽り運転が常態化している。

まぁある種、アメリカの文化を十年以上遅れて消化する「アメリカンミームの劣化コピー国である日本」としては、しょうがない面もある。出羽守専門家とアカデミア、そして企業側からも、その劣化コピーミームが流れこんでくるのだから。

上からの流れとマクロな運動を一般庶民は防ぎようもないが、とはいえアメリカの高等教育機関ですらすでにこのありさま。 「北朝鮮よりおかしい」脱北留学生がみた米名門大、意識の高さ

もはやミームの上流からすでに激しく汚染されているので、下流域の島国である日本の対策としては、このミーム汚染水を口に入れないようにしつつ、同時にこの状況を何とかしたければ「上」にアプローチし、政治的に戦う以外にありません。

 

「新しい階級闘争  大都市エリートから民主主義を守る」 より引用抜粋

グローバル化の問題点は「新しい階級闘争」を生み出した。新自由主義改革のもたらした経済格差の拡大、政治的な国民の分断、ポリティカル・コレクトネスやキャンセルカルチャーの暴走である。各国でグローバル企業や投資家(オーバークラス)と庶民層の間で政治的影響力の差が生じてしまったことがその要因だ。
(中略)
1970年代頃から「オーバークラス」が「上からの反革命」を起こして、庶民を裏切るに至ったと分析する。「新しい階級闘争」の解決のためには、同様に中間団体の再生やその間の調整の政治の復権、「民主的多元主義」が必要だと説く。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 新しい階級闘争: 大都市エリートから民主主義を守る

 

社会がおかしくなった源泉は「下」ではなく「上」にある。ほんとうのクズは「下」ではなく、「上」にいる、それに「下」が気づくことから、ほんとうの「革命」が始まる。

ではここで一曲♪ 【シャニマス】神様は死んだ、って(歌:斑鳩 ルカ) – オリジナルMV【アイドルマスター】です。

 

 

正義だの人権だの平和だの多様性だのと建前だけはあっても、実際の言動・行動は「そこに愛はあるんか」というような有様で、暴力性・排他性があからさま過ぎて、もはやその建前があまりに空しく、ただの政治的道具に堕している。

文化戦争はそうやって「えげつなさ」を増していき、相互確証破壊に向かいます。文化戦争は、伝統主義者・保守主義者と進歩主義者・自由主義者の間における、価値観の衝突であり、人権や信条、生活様式や芸術表現などの文化的な問題が政治的な争点となり、社会を二極化する状況を指します。

戦争反対!、戦争より対話を!、みたいな人たちって「行動」が矛盾してるんですね。同じ言語を共有し同じ国に暮らしている人たちとの「政治的な議論」や「文化戦争」ですら落ち着いた話し合いなんて全くできないような人たちが、

そして異論を排除し党派性でしか考えず、相手を徹底的に叩くことしかしない闘争過剰な人たちが、言葉も違えば文化も違う異国相手に「対話で全て解決」とかよくいえるものだ。

日頃から意見の違う人とか政治的に異なる立場の人の意見をしっかり聞いて、冷静に落ち着いて対応することができる人ならまだしも、その真逆で、不快なものにすぐに脊髄反射で怒りまくって感情的に押し通すことしかできない有様で、

それで一体どうやって「衝突する異国の隣人」と話し合うのか、ということ。

「差別」や「人権」という概念を政治的道具にして濫用しすぎて、気に入らない人間を理不尽に叩き続けてきた結果、逆に人権無視の差別主義者となっていく様は、ミイラ取りがミイラになった人もいれば、もともと他責傾向の強い人々が、強力な正義棒を与えられて本性剥き出しになった、という人もいるでしょう。

「他者を叩ける権力を持たせるとその人の正体がわかる」ということなのだろう。 しかし個々の差異だけではなく、戦争において人が残酷なことが出来るのと同様に、文化戦争においても凶暴さが剥き出しなるというのは、サピエンスの原始的な領域が活性化するからそうなりやすい、ともいえるでしょう。

 

 

戦争反対だの平和だの言うのは簡単だし、ほぼ誰もがそう思っていますが、まあそれは置いといて、そもそも人間・社会は戦争以外では広範囲に及ぶ暴力を発揮することはないのか? 戦争だけが沢山の人を殺すのか?

日本で戦後(1945年)~現在までの期間に自殺した人の総計は約150万人に及ぶ。その多くは男性で、中心は働き盛りの年代の人々です。「戦後の平和」とやらの期間に約150万人の働き盛りの人間(主に男性)が自殺する社会は本当に平和なのか?

また戦後(1945年)~2021年までの期間の「労働災害による死亡者数」の合計は約30万人に達しています。(労働者死傷病報告に基づいて集計)

また「死亡以外」の「重症の怪我や病気」を含む深刻な労働災害を受けた者たちの数は、戦後(1945年)から2021年までの間に約1,500万人に達しています。そしてこれらもそのほとんどが男性です。

「戦争で死ぬ、死なせるのは絶対ダメだ!」と叫ぶ割に、万単位の働き盛りの人間(主に男性)が毎年死んでいることには大きな声を上げないどころか、「(日本の)男性以外の属性」だけにスポットを過剰に当てる。

平和?な日常においては「命」を軽く扱いながら、「戦争で死ぬ、死なせるのは絶対ダメだ!」と叫ぶ偽善、そこには「死」が自分事になって初めて慌てふためく者たちの身勝手さがある。

そして文化戦争においても攻撃性むき出しの人々がいます。政治的正しさで「悪」とした対象を社会的に抹殺するかのような排除の暴力は、その個人の側からみれば相当なダメージでしょう。

「文化戦争中にイマジンを歌い、戦前っぽい空気の中で忌野清志郎の歌を歌う」そんな人々が暮らす社会はそもそも「命が軽く扱われる属性」の下働きで支えられてきた。

「お前はアイヒマンみたいな奴だ、と言って集団で私刑にする者たち」が、「夜と霧」「はだしのゲン」を読め!と啓蒙する平和?な社会。そしてそんな人々が暮らす社会も「命が軽く扱われる属性」の下働きで支えられている。

「命が軽く扱われる属性」こそ、「この世界の片隅に」生き、平和を支えている庶民であり、「現代版はだしのゲン」である。下部構造を日々支えている人々に向かって、本ばかり読んでるバラモン左翼が「天上」から啓蒙しつつ営業して金を稼いでいる。

バラモン左翼による世界・他者の解釈の権威化と、人文マーケティング戦略に絡めとられた一部の専門家、支援者たちは、「当事者」を顧客として囲い込み、政治的闘争の足軽兵として利用するようになる。

そして「反対する当事者」はまるで存在しないかのように視界から消して排除していく。

 

バラモン左翼+ルンペンブルジョワジー

ウッドハウス氏の『ザ・ルンペンブルジョワジー』という論文は、アメリカの政治的行動主義についての興味深い分析をしています。ウッドハウス氏は、自分の利益や権力や敵意を満たすために政治的行動主義を装う活動をする人々を「ルンペンブルジョワジー」と呼んでいます。

この言葉は、「ルンペンプロレタリアート」と「ブルジョワジー」を組み合わせた造語です。ルンペンブルジョワジーは、政治的行動主義を自分たちの道具として使っています。

彼ら・彼女たちは、道徳を振りかざし、他人を恫喝し、その運動や活動が社会的立場、仕事・収入と繋がり、その維持運営が目的化しています。

そして、「自分たちが支援すると言っている被害者や弱者が自身の運動や活動、仕事とプラスの関係性」であれば利用しますが、マイナスの関係性にあれば、むしろ圧力を加え押さえつけたり「悪」として排除します。

「都合の悪い被害者、弱者、苦しんでいる当事者」を「悪認定」するために、人文系学問を利用して自分たちの利益や権力や敵意を満たそうとするだけでなく、政治的行動主義を使って自分たちに都合が良い制度に書き換えようとします。

よってその制度改革の過程には「都合の悪い被害者、弱者、当事者の声」は最初から含まれていません。

ルンペンブルジョワジーは、政治的行動主義を歪めて社会に悪影響を与えていてもそれを全く認めず、「自分たちは常に絶対正しい側」「我らに反する側は常に絶対間違っている側」という内集団・外集団バイアスが強化されており、その意味でカルト性を帯びています。

彼ら・彼女たちは「自分たちに都合の悪い事実や意見」を隠し、「自分たちに都合の良い情報や感情」だけを広めています。そして、「自分たちとは異なるやり方で何かを改善しようとする人々の努力」を妨害し邪魔し、社会の多様な形の進歩や発展や協力の在り方を妨げ、自分たちのやり方だけに一元化しようとする。

「ルンペンブルジョワジー」は、自分のコードを守り、他のコードを破壊する人々を指します。彼ら・彼女たちは、自分のコードが正しいと信じて疑いません。自分のコードに反する人々を敵視し、自分のコードに都合がいい情報や感情を広めることは、「脱コード化」が目指すものとは真逆です。

「ルンペンブルジョワジー」は、新しい価値を創造するのではなく、既存の価値を利用して自分の利益につなげることしかできず、外国の上部構造と協力して自分の利益を高めるように持っていきます。

そのために政治的行動主義を道具として使って自分の権力性を強めたり、人文系学問を道具として使って「敵意(ヘイト)」を「正義、善」に合理化(防衛機制)したりして自己正当化し、他者を断罪したりしています。

彼ら・彼女たちの活動は社会に属する「みんな」にとって良い価値、幸福ではなく、自分たちにとって都合のいい価値・幸福だけを追い求めています。

これは、「脱コード化」が望む新しい価値の創造とは違います。したがって、「ルンペンブルジョワジー」は、「脱コード化」の一形態ではなく、「反脱コード化」の一形態だと言えます。

これに対して最近の「再コード化」の流れの一部は、「脱コード化」からの反動というより、自分たちにとって都合のいい価値・幸福だけを追い求めて「反脱コード化」する運動・活動の先鋭化に対する「反動」が含まれていると考えます。

そして彼ら・彼女たちは「脱コード化」が対抗するグローバル資本主義の中においては体制側の立場にあります。体制の一部でありながら、体制から恩恵を受けていることを隠したり正当化したりすることで、「体制への批判や変革を阻害している」と言えます。

 

バラモン左翼」もこれに似ていて、高学歴、エリート層で弱者や多様性に同情するリベラルな主張をするが、実際には自分たちの利益や特権を守るために社会的な変革を妨げる人々のことを指します。

「バラモン左翼」と「ルンペンブルジョワジー」は、グローバル資本主義の中で上部構造側、エリート層に属しながら、社会的な責任や連帯感を欠いています。

両者には違いもあります。「バラモン左翼」は、自分たちのコードや価値を正当化するためにリベラルな言葉を使います。「ルンペンブルジョワジー」は、自分たちのコードや価値を正当化するために保守的な言葉を使います。

しかし「両者が一人の人間に同時に成立する」ということは可能で、自分たちの都合に応じて使い分けているだけなんですね、あるときはリベラルに自由を、あるときは保守的に制限を加える、という具合に。