縦の分断 集合知の独立性と学問の中立性  

今回は前半で「集合知の独立性と学問の中立性」、後半で「縦の分断」をテーマに記事を書いています。

 

身体性はそれ自体に特有の暗黙知を含んでいて、それは身体性でしか捉えられない。概念以前のものは多元的で、特定の専門知や技術だけではすべてを捉えられない。

フッサールの概念でいう「生活世界」もそうですが、生活世界は多元的な身体性を基盤にしています。しかし特定の専門知で触れられる「心」とか「無意識」という概念は特定の身体性によって解釈され、有限性に条件づけられています。

生活世界:あらゆる意味形成と存在妥当の根源的地盤として、科学的な世界理解に先立っていつもすでに自明なものとして与えられている世界

「無意識」はもっと広く多次元的であり、特定の身体ではその極僅かの部分しか聞けないし見えない。「言語以前」も同様に。何故、多様な人がいたほうがいいのか?というのは、多様な身体性が存在しないと無意識の一部だけが「ヒト」「心」とされてしまうからです。

 

上のツイッター、一言でいえばアジェンダ設定ですね。  アジェンダ設定:  あるテーマの重要性が報道での言及量・頻度により決定づけられること

また「印象の誘導」は情報量や頻度によるものだけではなく、フレーミング効果が多用されることも多い。フレーミング効果: ある事柄を説明するときに、「どう表現するかの見せ方」によって印象が変わること

そこにメディアが結びつくことでアジェンダ設定が行われ、マクロな規模で印象操作が行われ、大衆を「特定の解釈の仕方」へと誘導することが可能になる。

「権威性の法則」と「フレーミング効果」で特定のイデオロギーや思想に基づいた価値基準へ誘導・矯正するやり方は、活動家だけでなく一部のアカデミア、専門家等にもみられます。

これは単純に時間の制約や認知負荷への考慮等だけでなく、意図的・恣意的に一面だけが断定的に語られ、反対の面や別の面を語ると強い同調圧力がかかって抑え込まれ排除される、ということが起きてきます。

「バーンスティンのフーコー批判再考」 より引用抜粋

フーコーは初めに「言説を分析するには、誰が何を言ったという観点からではなく、……文が決まった真理値を持ち、発話されるようになるための条件とは何なのか、という観点からなされるべき」と考えたが、最終的に「言葉が話される物質的条件へと戻らざるをえなかった」と指摘する(Hacking 2002=2012: 173-174)。

フーコー自身もまた、1971年のコレージュ・ド・フランスの講義で、F. W. ニーチェが提示した「外在性の原則」―知の背後には知とは全く別のものがあるという原則(Foucault 2011=2014: 260)―をふまえ、

「階級間の闘いが、言説の虚構の場所を定義し、言説を述べることができる者、述べるべき者に対する(現実的ないし理念的な)資格付与を行うのは、いったいどのようにしてなのか」、「しかじかのタイプの対象が、そうした闘いの道具としての言説の対象とならねばならないのは、いったいどのようにしてなのか」(Foucault 2011=2014: 257)と問う。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより
引用元⇒ バーンスティンのフーコー批判再考―社会-認識論的言説分析に向けて

 

集合知の独立性と学問の中立性

両義性・複雑性がある対象や事柄をみる場合、スポットを当てた面とは反対の面や別の面があることが同時に成立するわけですが、彼らは「他者への批判」は大好きですが「自身がそうされる」と物凄い拒絶反応と防衛心、時に攻撃性を発揮したりします。

これはよく「自分の頭で考えろ」という上司が「本当に部下が自分の頭で考えると嫌がる」のと似ている現象です。結局それは「結果」だけを観て「プロセスを生きる」を認めない姿勢なんですね。

創造性や思考の過剰さ、試行錯誤の過程というのは特定の型の範囲には収まらない、絶えず逸脱する。そして「無駄なこと」や「遠回り」をする。それらのゆらぎの幅があるから何かが忽然と結晶化していく。「プロセスを生きる」からそれが生じる。

何かが「育つ」には「自分とは異なる相手の正直さ」を恐れず不安にならず怒らずに見守る姿勢が必要。性急に結果を求める人にもそれはできない。

個々が独立性を保ち対等に批判や意見を述べられるなら、「二項対立」が弁証法的発展に繋がったり集合知として生かされる可能性に繋がりますが、前提に力の非対称性があり「一方だけがそれを行うことを許されている」というような場合、弁証法的発展に繋がらず集合知としても生かされません。

「集合知」に関しては過去にも記事を書いていますが、『「みんなの意見」は案外正しい』の著者であるスロウィッキーさんは「適切な状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている」と語りますが、「集合知」にも弱点はあります。

閉鎖的な環境だったり、関係が対等ではない状態、例えばネットのインフルエンサーが中心になって主導するような形とか、先鋭化した現代の社会運動のように異論を認めず反対者を集団で叩くような内集団・外集団バイアスを強化した状態では「一般の老若男女」が集まったところで集合知はよく発揮できません。

「こう考えこう判断するのが正しい」という集団的圧力やイデオロギー運動、社会運動等の「方向性の決まったもの」ではなく、そういう圧を受けていないフリーで「多様」な個人が、「対等」な関係でかつ個々がそれぞれに知識や能力をもつ、というようなときに良い形で発揮されるということ。

「集合知」には「独立性」が大事で、これは事実判断を行う際の「価値中立」とは異なるんですね。

科学者がエビデンスを一切無視して個々の見解だけで何でもやってしまえばおかしくなるように、「学問を教える側」が「価値中立」を前提にしないなら、学問の権威性を利用した政治活動に変質し暴走しても止められなくなり、

またメディア等のファクトチェックを専門が行う際にも、個人の価値基準で事実を捻じ曲げてしまうならば、その弊害は権威性のない一般人のデマよりも大きくなる。

 

しかし専門知に対して大衆の「集合知能」は「価値中立」よりも「独立性」が大事になる。客観性より(独立した)主観性に重きがあります。

創造性は中立とは全く質が異なり、芸術が科学的態度とは異なり、理性と感性が異なるように、人間は異質なものを内在した存在です。個人として矛盾が同時に在っても全然よい、というかそれが自然状態。

しかし「完全な中立などない」「純粋客観性などない」、根本的にはそうだからといって一切の基準が否定されてしまえば滅茶苦茶になるわけです。

「異質なものを同時に内在した矛盾と共に在る人間存在」だからこそ、特定分野の専門の人ほどそれを意識している必要があるのですが、最近そういうところがグダグダになってきてる(特に左派の方がその傾向が強くなっている)。

そしてスロウィッキーさんが語るように「権力者や専門家の意見に左右されるような状況では、いくら集団が大きかろうとも集合知は形成されない」ということです。

専門家やインテリ、知識人、活動家主導ではだめなんですね、、たとえば「性」の問題のような誰もが関わる普遍的なテーマを考察する際に、インテリたちや活動家たちが定義・解釈を独占したり、それを押し付けるようではだめです。

前回の記事で「専門知の近眼」をテーマにしましたが、

スロウィッキーさんは、「専門知識とは『驚くほど狭隘」と指摘し、「専門家はまた、自分の見解がどれくらい正しいか推し測るのが、驚くほど下手だ。彼らも素人と同じように自分の正しさを過大評価する傾向にあることがわかっている」と語ります。

現実には無意識の領域においては土俗的な非専門家の方が深く触れていたり見たり聞いたりしていることがよくある。これはローカルの領域には膨大な多様な身体性があるからで、特定の人が定義を独占していないゆえに「厚み」が「厚みのまま」で生かされているからです。

ここで再び「バーンスティンのフーコー批判再考」 より引用です。

バーンスティンは、「支配的な文化的カテゴリー」が生産・伝達され、人々の「意識」を形成していく「象徴的統制symbolic control」に関心を寄せる。

「象徴的統制」の実現にかかわるのが、言説の生産・配分・再編成・伝達-獲得という「一種独特sui generis」な位相としての、「ペダゴジックな原理pedagogic principle」である。

「象徴的統制」の過程において、「教育言説pedagogic discourse」(以下、PDis)は中核的役割を果たす(Bernstein 1990; 2000)。
(中略)
「PDis」は、教育的・政治的・経済的・科学的といった「あらゆる言説の生みの親mother of all discourse」( Tyler 1995: 251)であり、言説が編成される根本的な原理である。
(中略)
フーコーが開示したのは、言説の「厚み」が、「それ固有の存在や強度を備え」、「それを利用する人間の思考や行動を無意識のうちに方向づけるようなある種の強制力」(内田1996: 36)を有し、主体を形成していくという事実であった。

 

「一部の分野の専門家だけに定義された人間観、世界観」に基づく言説が内面化されていくことで厚みを失い均一化されていくものとは何かといえば、心であり精神であり文化であり世界の厚みです。

アカデミア、専門家、メディア等だけが、あるいは左派や活動家の言説が「政治的に正しい」という前提でアジェンダ設定が行われフレーミング効果が多用され、特定の面だけにスポットが当てられる。

逆に、スポットを当てた面とは反対の面や別の面を捉える言説は否定的にラベリングされ、あるいはスポットを当てさせないよう排除する。そうやって両義性のある事柄は単一の限定された意味範囲に固定される。

事実命題を「権威性の法則」と「フレーミング効果」で特定の規範命題に接続し、そうやって分けられた言説を見聞きし続け内面化した大衆もまた、不可視化された排除の力学によって人や物事を特定の方向性によって分けるようになっていく。

「ある事実」に対して「その良し悪しをどう価値判断するか」を「個々の独立性」によって判断させると自分たちの望んだ方に行かないので先に方向づける、ということです。

 

縦の分断

権力は下からくる」とはいいますが、それは「結果」だけをみればという場合であっても、「結果の背景」に関しては見る側に都合が良ければスポットを当てるし悪ければ当てない。ある特定の事柄だけが複雑性や両義性の多元性で捉えられ、それ以外は一面だけが捉えられる(ようにもっていかれる)。

今起きているのは、上下の分断があることを意識させないように対象をズラし、「上部の利害対立」を「下」に実行させようと、左右のインテリや権力を持つ側が「下」を扇動している構図。「下」がそもそも「上」と分断していることに気づき、まとまって「上」を叩くことをさせないようにしている。

「敵は本能寺にあり!」みたいに扇動している者達こそが「敵」だったという皮肉な構造に気づかないまま、インテリたちの理念や特権によって肥大化したイデオロギー運動に巻き込まれて時間と労力を搾取されている。

本当に団結して立ち上がり政治的に戦うべき(そうでないと解決しない)のは氷河期世代の派遣労働者のような人々や非大卒の労働弱者や生活困窮者等だが、「上部の右と左の利害対立」に捨て駒として使われている状態。

より注意深く批判的に考察する必要がある対象は「マジョリティ(中間層)」ではない、その上にいるマイノリティ(少数の上位者及び権力・権威性を持つ側)。

マイノリティは上下に存在し、上のマイノリティ(権力・権威性を持つ側)が下のマイノリティ(権力・権威性を持たない側)を使っている構造。「マジョリティ」を突いて自分たちに都合が良くなるように世論を動かしているだけ。

「マジョリティ」という平べったいわかりやすいカテゴライズが当たり前になされ、そこにある両義性や複雑性は単純化される。「マジョリティ」があるからこそ社会が成立し、そしてその働きが生み出す様々なものが他の属性を陰に陽に支えていたりする。

そういうプラス面は見ず、ただの外集団的存在として一義的に扱い、特権だの強者だの様々なレッテルで片づける。「我々と同じ価値基準によって、ある対象・属性に関してのみ複雑性・両義性を観るべき、それ以外の複雑性・両義性は深く観てはならない」という暗黙のルール。

「それ以外の対象」は「問題の原因がそれ自体で独立して存在する悪」であるかのように扱われる。それらの責任は全てそれら自身にあり、他は無関係だから擁護も協力も不要という切り離しが行われる。そして常にそれだけは「わかりやすくされる」。

しかしその単純化の背景には「下や外部」をそのように動かした「上や内部」からの力学がある。そしてそれもアジェンダ設定、フレーミング効果不可視化される。

実際ここ数年の社会運動等における言動を観察しただけでも、ある属性の一部の主張にだけにコミットし、別の主張には全く聞く耳も持たないどころか、陰湿なやり方、暴力的なやり方で否定、排除するなんていうことは「多様性」を掲げる人々から多々観察されました。

しかしそれは「特定の属性や対象の両義性や複雑性」に関しては「意図的に」見ることをせず、「わかりやすい悪、わかりやすい問題の原因」が「独立して存在する」かのように一部のアカデミア、専門家、メディア等が共犯的に扱い続けた結果でもあるでしょう。

イデオロギーや社会運動等の力学が加わると一気に素人以下の知性になる専門家もいます。

 

知の欺瞞

私は「ソーカル事件」においてソーカルがそうぜざるを得なかった理由・背景はわかりますが、基本的に「学問に対する本質とは無関係かつ侮蔑的で悪意しかない試み」は否定しています。「知の欺瞞」の視点が間違っているということではないんですね、ソーカルの批判にも意義がある。

しかしそもそも思考の質が異なるものをどちらか一方だけの視点で断罪することは相互不信を高めるだけで、互いが考察を深めることに繋がらないのであれば結局のところ意味がない。

どちらの思考にも質の異なる「繊細さ」と「雑さ」があり、一方の繊細さを雑に扱うことへの抵抗がどちらにもあるのはわかるから。

以下に紹介の動画はむしろ現代の先鋭化した社会運動としてのフェミニズムの本質の一面を突いているだけでなく、ジェンダーや人種・セクシャリティの問題それ自体を否定するのではなく、「それらのテーマがどのように研究されているか」、「政治的腐敗」にスポットを当てている点で評価しています。

 

 

特定のイデオロギーが「政治的に正しくない」としたものであるなら事実ですら無効にしたり、事実の精査を行おうとしただけで集団で叩いたりキャンセルするような現状において、学問に対する恣意的な操作と権威・権力的な政治的圧力への批判は重要だと考えます。

社会に大きな影響を与えうるメディア、アカデミア、著名な専門家等の「上」の動きにこそ注意深く目を向けることが必要なんですね。

「何にスポットをあてどのように定義し価値判断すべきか」の裁量権がより多く与えられ、ある対象への概念の創出等が出来る側の方が、防衛力も攻撃力も高い上に、そこから「社会の問題とされるもの」が構築されてくる、というひとつの源泉なのだから。

そして「末端」の症状はそれらの影響の結果に過ぎないが、症状が顕著に出るのは末端なので当然「わかりやすい」、だからそこにスポットを当てれば批判のネタにはなりやすいし、「末端」を批判するのは権威にとって最もたやすく安全でもありますが、

しかしそれらの者たちは知的な方法で搾取された非力な者ともいえる。だから本当にスポットを当てて批判が必要なのは、「末端」ではなくメディア、アカデミア、著名な専門家等や権威性を有する知識階層です。

相手の劣化を嘆く前に、今の庶民の状況を嘆き批判する前に、まず人文アカデミア及び知識人こそ己自身をみることが大事でしょう。「こんな子供に誰がした」という本がありましたが、「私はそんな風に育てた覚えはない」とかいう親にかぎってそんな風に子供を育てているんものなんですよ。