「実在性の破れ」 物自体と「物質でも無でもないもの」
今回は「実在性の破れ」 物自体と「物質でも無でもないもの」がテーマで、現代物理学や哲学、瞑想等を含めた「実在」についての抽象的な考察の内容になっています。
高校~大学の初めで学ぶ物理ってそのほとんどが「18世紀」の物理の知なんですよね。しかし「18世紀」の物理の知すら理解できないようでは現代の物理は理解できない。とはいっても「18世紀」の学者を舐めてはいけないんです、先見性、予見する力は凄いものがあります。
いえ「18世紀」の科学者だけなく、もっと昔の哲学者も舐めてはいけません。20世紀初頭ですら「原子」という単位は科学者のコンセンサスが得られてなく主流ではなかったのに、既に古代ギリシャでは「原子論」が存在し、仏教には「極微」という概念が存在した。
「物質観の変遷」 より引用抜粋
現代の高度に洗練された物質観を共有しているであろう読者には、上記のようなギリシアの物質観は、いかにも粗雑な、さらにいえば荒唐無稽な物質観のように映るかもしれない。しかし、決してそうではない。アリストテレスの物質観は、われわれが日常的に観察することのできる物質の変化や運動を実に巧みに説明してくれるのである。
たとえば、土は手を離すと落下するし、水は低い方へと流れる。一方、焚き火の際に観察されるように、空気や火(炎)は勢いよく上昇する。また、「冷-湿」の性質をもつ水を温めてみよう。図-1によれば、水は「温-湿」の性質をもつ空気になる。これは水を熱すれば空気(われわれの言い方では、水蒸気)になるという身近な経験を見事に説明してくれる。
同様のことが他の原質、性質についてもいえるわけで、四原質は、四性質を変化させることによって相互に転換可能ということになる。かくて、この理論によって、自然界に生じている多彩な物質変化が体系的に説明可能となったのである。
(中略)
ガッサンディ(一五九二-一六五五)はデモクリトス流の原子論を復活させ、トリチェリ(一六○八-一六四七)は真空の存在を実験的に明らかにした。このような議論を前提にして、ボイル(一六二七-一六九一)は、一六六一年の『懐疑的化学者』によって、近代科学の一部としての化学の基礎を築いた。ボイルによれば、物質は感知できないほど小さく、実際上分割することができない微小粒子(熱心なキリスト教徒であったボイルは、万能の神の力による分割可能性の余地を残している)から成っており、これらの粒子(原子)、および粒子の結合したもの(分子)の配列や運動の結果が物質の性質とその変化に他ならない。
さらに、ボイルは金属(たとえば金)が化合物ではなく、単一の原子から成る純粋な物質、すなわち単体(元素)であると論じて、錬金術が原理的に不可能であることを示した。かくて、ボイルの物質理論は、ニュートンの力学体系とともに、自然界を巨大で精密な機械仕掛けとみなす機械論的世界像の一翼を担ったのであった。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 物質観の変遷
まぁそれらの理論を細かく見れば物理学的には正確ではないんですが、直観的に「見えない最小の何か」が「ある」ということを「思考」だけで大筋は捉えているところが凄いんです。「科学」の根源には「科学以前の人間の思考と論理の積み重ね」があるんですね。
「18世紀の数学・物理でここまでわかる!? ブラックホールの「古典的」予言(小寺忠 著)」 より引用抜粋
何年もたいへんな思いで勉強したのに、「まだ18世紀」などと聞くと、力が抜けてしまうかもしれません。しかし、当時の数学・物理も決して侮れません。なんと、18世紀にブラックホールの存在を予想した学者がいるのです。
2019年4月10日、5500万光年の彼方の「おとめ座の銀河M87」の中心核にある巨大ブラックホールの撮影に成功したと発表され、大きな話題になった。そのとき、ブラックホールの存在が200年以上も前に予言されていたことも伝えられた。アインシュタインの相対性理論が発表されるよりも遥か昔に、どうして予言できたのか。
予言したのはイギリスの地質学者・天文学者ジョン・ミッチェルで、1784年のことである。彼は「平均密度が太陽と同じである星の脱出速度」が光速になる星の大きさを計算し、太陽の半径の約500倍であることを示した。その結果から「この天体からは何も情報が得られない。暗い星になるはずだ」と予言した。これが「ブラックホール」の最初の予言と言われるものである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 18世紀の数学・物理でここまでわかる!? ブラックホールの「古典的」予言(小寺忠 著)
相対性理論は、「ニュートン力学」がまず先にあることが前提で、その矛盾をアインシュタインが解決した結果ともいえます。「重力」の概念そのものを変え、重力を「時空のゆがみ」として記述しなおした。
「万有引力の法則」というのは、「質量と質量の間に働く力」という誰もが身体的・感覚的あるいは直観的にわかりやすい法則でしょう。しかし相対性理論になると身体の感覚や直観だけでは意味不明で、前提となる知を元に論理的に考えないとわからない。量子力学になるとさらに意味不明の領域でしょう。
その意味で「子供の発見」と「科学の発見」は同じではないんです。子供の頃「学校嫌い」だったアインシュタインもなんだかんだいって大学教育をシッカリ受け、博士号まで取得し、過去の数学者たちの教科書的な知識と創造性の両方があって相対性理論は生まれた。
「教科書」は先人の積み上げた知の宝庫であるのと同時に、創造性が様々なものと結びつくことで知の総合力になる。
知の総合力がないと彼のような学問的発見・解明はできない。専門知識、定義・概念化する力、そして観察力、好奇心、その全てが高いから発見の次元も高いということ。
「人文知だけでは不可能な次元の理系知による数々の発見」は世界を大きく変えました。と同時に明確な技術の発展が人文知を一段低いものとして扱うことで失われていく別の「厚み」がある。
功利主義的に見れば、理系知による技術の発達、便利で快適で誰もがアクセスしやすい普遍性はグローバルな市場経済システムに適合的で、「実用的」な面で人文知より理系知に軍配が上がるわけです。
そして権威喪失への反動・焦りから対立的な感じが強まってくるわけですが、しかし「人文知・理系知そのものの否定」と、「人文系・理系の一部の人たちの在り方への批判」は全く違うんですね。
私は前者は基本的にしませんが、「知の限界」というのは双方にあるから、一方の知だけで世界を捉える姿勢は否定します。
まぁそれよりも、果たして学問それ自体に境界なんてあるのか?境界があるのは現実における人間の政治的な関係性とか利害が対立する権威の衝突の方にあって、学問それ自体にはそんなものないのではないか?と思うわけなんですね。
この世界は『量子もつれ』により”投影”された映像、というこの物理学的な捉え方ですが、「絶対そんなはずはない」と感じるのが普通というか当然なんでしょうけど、瞑想による直観ではこの方が自然なリアリティなんですね。
まぁ瞑想による直観だけで宇宙論を語るとヤバい人としか思われませんが(笑)、しかしホログラフィック理論のような世界観が元々の直観に一番近い。
「屏風のトラを出して見ろ」的なインテリさんは、「トラ」を知らずに概念で何でも語れると思い込んでいる。トラを概念で分析してトラを一番知っていると思い込んでいる。しかしトラそれ自体は概念には収まらない。トラはトラを生きている、概念の中にトラはいない。
何でも概念で説明できる、概念を知っていることが知ることだと思い込んでいるインテリ連中にはこういっておけばよい「生きたトラを屏風に入れてみろ」と。
ところが瞑想においては、「生きたトラは屏風に入る」し「屏風のトラは出てくる」ともいえるのです。まぁ凄く抽象的なものを凄く雑に言えばの話ですが。ではここでちょっと一息で、4コマ漫画「虎」の紹介です。
4コマ漫画「虎」 pic.twitter.com/RSUKdNBNvG
— イワンタ (@reezent) January 3, 2022
もう何十年も前から直観していることを、今までは大体話すと怒られが発生したりすることもありましたが、最近は宇宙物理学が私のリアリティと違和感が少なくなってきて、怒られが減ってきたように思います(笑)
ただ瞑想による直観とホログラフィック理論はちょっと違うところがあるんですね、実はその「ちょっと」がかなり大きな違いでもあるんですが、ホログラフィック理論には「根本的に」見落としているものがあるということです。
しかし50年先はもしかするとホログラフィック理論の「根本的に」見落としているものが概念化されている「かも」しれませんね。あくまで「かも」ですが。
しかしそうなるとホログラフィック理論以上に「ありえないもの」が記述されることになるので、マトリックスのネオどころではなく「うぎゃー、こんなの嘘だ~」ってなるでしょうね(笑)
宇宙は92個の元素の組み合わせで出来ているわけですが、言い方を変えれば「実在」とされるものは本質的には「その程度の個性」しか元々ないわけですね。素粒子で捉えるならもっとシンプル。複雑性というのは「組み合わせ」、創造性というのも組み合わせ、ということですね。
以下に紹介の外部サイト記事の内容もそうですが、「荒唐無稽なものに思われる昔のSFで想像的に描かれていた現代の姿」が、「その当時はそんなこと知り得ないはずなのに現代の姿の一部を捉えていた」というようなことは実際あって、「想像する力」「直観」も侮れないんですね。
「量子力学が投げかける究極の問い──「物質は実在しない」は本当か?」 より引用抜粋
ボーアはまた、東洋の陰陽思想や、美術のキュビズムにも触発され、相補性の考え方に至ったそうだ。物理学の思考と、ほかの思想との類似性を見抜き、役に立つ思想を柔軟に取り込み、物理学に活かすことのできる人であったと言えよう。
アインシュタインも、常に哲学を思考に活用していた。相対性理論構築の際、論理実証主義の前身とも言えるエルンスト・マッハの思想を拠り所とした。
(中略)
ある科学理論が、進歩のために変化すべき時点に到達しているのに、特定の考え方に固執しつづければ、それは謬見(びゅうけん)・偏見となる。進歩するには、考え方の枠組みはシフトしなければならない。シフトの方向の導き手となるのが世界観であり、哲学はその源として頼れるだろう。シフトを妨げる、科学者個人や科学者コミュニティーに潜む偏見に常に注意を払い、理論にどんな解釈があり得るのか、どの解釈に発展性があるのかについて、オープンな心で探り続け、また、哲学や歴史を学んで、大局観を失わないようにしようと、ベッカーは呼びかける。
たとえばデイヴィッド・ドイッチュは、エヴェレット自身からその多世界理論を聞き、並行宇宙という新しい世界観を獲得し、これを利用して量子コンピュータ理論を考案したという。ドイッチュらの成果を足がかりに、従来のコンピュータでは事実上不可能な計算を超高速で成し遂げる量子コンピュータの開発が実際に取り組まれている今日、多世界解釈には発展性が感じられる。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
生き物だけでなく、物質も、地球も太陽も寿命があり、星には寿命があるわけです。星の誕生と崩壊、それは現代では観測できる事実です。そして事実とか実在というのは、「観察者・分析者」と「観察されるもの」が同時に必要で、
たとえば「地球・月・太陽」がない状態(未来における科学的な現実)において、「かつてそこに人類がいた」ということは「事実」といえるでしょうか?
「それを記憶し伝える者」もなく、記録データももちろん全てが分解されて消え去り、「人類がかつて存在した場」、「見たもの全て」が「ない」。
ここで「その事実及び実在」をどう実証するのか?という問い以前に、「存在すること・生きるという経験の一切」、「科学以前の物質や生命それ自体」が「そもそも一体何だったのか?」という問いで、
これは「生きる意味や価値」を問うものではなく、「事実・実在」というものそれ自体を問うものです。
「観察されるもの」としての「地球・月・太陽・他の星」が存在し、「他者」及び「観察者」としての人間が存在すれば、そこには客観としての事実と実在が生じ、「今・現在」を経験する主観や思考が生じ、そして「他者」が死んでも「私」はまだその世界を経験できますが、
地上の全ての「私」が存在せず、地上も存在せず、太陽も月も星もない、そこにおいて「かつてそこに私がいた」というのは、「それが証明できるか」とか以前に、「そもそもそれ(地球・月・太陽・人間)は「最初から」存在するものなのか? またそれは此処にあると感じられる現在においても同様に、本当に実在しているのか?
また「私」は本当に「今」を「世界」を経験しているのか?という問いです。 まぁ今回はこの辺で。