出逢いと良い男女関係のための「数学」 怒り・不満の表現の役割
今日は「怒り」に関する感性アプローチの補足と「お笑い・ユーモア」「男女の心理学」のカテゴリー記事の更新です。
前回記事で高倉健さんの「あなたへ」を紹介しましたが、悲しいがな、実際はあんなに美しい夫婦の姿、そして健さんみたいなかっこいい男はこの地上にはほぼ存在していないといえるでしょう。笑
実際のところ、リアルな父親や夫婦・親子の現実は今どういう感じでしょうか?ではここで現実の悲哀をユーモアと共にシンプルに伝えるサラリーマン川柳を以下に幾つか紹介しますね。
引用・抜粋 ⇒ サラリーマン川柳
こんな川柳を読んでいると笑えるのと同時に「オヤジ等~、がんばれ~!」って応援したい気持ちが込み上げてもきますが(笑)そんな私も今や彼らと何ら変わらないオジサンです(>_<)
「愛を語る数学」
ではここからが本題ですが、 以下に紹介するTEDの動画は「男女の心理」を数学と心理学で分析するハンナ・フライさんの話で、内容はとても面白く、感性も表現力も豊かで、私はこういう学者さんは学者以前に人として好きですね。
彼女は「愛を語る数学」の中で以下のように語ります。
等式や記号は 無味乾燥なものではありません それらは 声を持っています 息をのむような自然の豊かさや私たちの身の周りで ねじれ展 開するパターンの 驚くべきシンプルさを声高に語りかけています。
感性が豊かであるならば、知性は非常に豊かな形で現実 に生かされます。感性と理性共に大事であり、この二つが敵対したり過剰にアンバランスになったり分離的にならずに共に調和して働く時、彼女のようなとても豊かで固さのない柔らかい思考・表現による伝え方が出来るわけですね。
この動画では、「パートナーの見つけ方」「離婚の回避法」「ネガティブの しきい値」などをテーマにユーモアたっぷりに語ります。
ここで ぜひ申し上げたいのは これらの方程式が もう一つ 完ぺきに描写し得るのは 軍拡競争にある2国間の関係ということです(笑)
ですから 口論をして負のスパイラルに陥り 離婚の瀬戸際に追いつめられたカップルは 実は 数学的には核戦争の始まりと同等なわけです(笑)
怒りをため込んではいけない
等式で重要なこと:「ネガティブの しきい値」
➀「良い結婚とは 歩み寄りと相互理解 互いの空間を許容すること、些細なことには目をつぶって 大事なことだけを話し合う カップル」=「ネガティブの しきい値が非常に高い」
➁ 何事も 気づかないふりはせず お互いに不平不満を言える そして常に関係を修復しようとしていて 結婚生活の先行きを かなりポジティブに捉えている」 =「ネガティブの しきい値が非常に低い」
最も成功している関係というのは➁=「ネガティブのしきい値が非常に低い」です。
アドラーは「怒り」のマイナス面ばかりをいいますが、不満や怒りの感情の明確な表現はそういう面ばかりでもないのですね。
例えば、一次感情や二次感情という概念を使って、「怒りを二次感情」とし、「一次感情には悲しみや不安などが潜んでいる」などという分析の仕方にも、確かに状況によっては意味があったり有効である場合もありますし、
例えば「怒りの対象」や「その時置かれている場面」によっても、「怒りの表現をするわけにはいかない対象」や「そう出来ない状況」というのはあるわけです。
ですが我慢して蓄積し続けるとそれはストレスとなり、抑圧化したストレスが別の負の現象となって噴出する、ということがあります。
また、トラウマがある場合とか、あるいは知・情・意のバランスがかなり悪くて、「感情表現が暴走しやい意識状態」では、怒りの表現によって現象をさらに悪化させることもあります。なので、こういう場合は、「怒り」のネガティブ作用への心理的対処が有効なわけですね。
またこれとよく似た心理学者ラザルスの、一次評価や二次評価という「認知的評価」の概念で考えることでストレスコーピング(対処)するという方法もあります。
つまり情動と感情の問題というものは、多角的なものでありますが、私はハンナさんの言うこともよくわかるんですね。怒りにもいろいろあり、その質や強弱、意味合いは異なるものです。
後、もうひとつ興味深いことが見えてきますね、軍拡競争にある2国間の関係においても「ネガティブのしきい値が非常に低い」方が良いということです。
例えばそういう関係性にある国に対する怒りや嫌悪感も、人としての感情としては、嫌なものは嫌だ、とはっきり言った方がやはり良い、ということですね。
理不尽なことをされても黙って主張せずに飲み続けていく結果は、「この国とは付き合いきれない、関係を断ちましょう」という政治的な「離婚」「決別」になるわけですので。
私は「怒り」そのものを否定してはいません。むしろ闘争原理も喜怒哀楽の自然感情も全て肯定しています。様々な社会問題や理不尽な現実の中で、人としての自然な反応としての怒りはよくわかります。
ですがこれには限度はあるし、また表現の仕方というものがあるでしょう。あまりに過激になってしまうと、社会が許容できるレベルの怒りや不満ではなく、もはや呪い的な恨みの感情だけになって暴走し、終わりなき報復感情の負の連鎖になってしまいます。
同様に、短絡的で思慮を欠いた一方的な恨みの感情表現は、ストーカー殺人やら行き過ぎた私刑・復讐行為などになることも現実にあります。
そして情報操作や心理操作で扇動された過剰な「怒り」が変質することによって、エスカレートした集団感情は歯止めが利かなくなり、いつしか無慈悲で破壊的なものになってしまう現象も実際に多々あるわけです。
「怒り」をただの無慈悲な「恨み」「呪い」にまで感情劣化させずに、もっと昇華した形に表現出来れば、それは喜・哀・楽の感情とはまた違う意味のある役割を果たすでしょう。