漂白社会の矛盾とルッキズム 

 

今回は「漂白社会の矛盾とルッキズム」がテーマです。禁止令が増えても増やしても、「言葉では言わないようにする」とか、表現だけを規制して上っ面だけ綺麗な社会にしても、

むしろさらに本質が強化されていく、という矛盾、こういう抑圧のパラドックスは過去にも違うテーマでいろいろと書いてきましたが、まぁそれも人間の両義性ゆえです。「表現や欲望を押さえつける」というやり方は、人間を単純化しているだけなのです。

「無意識」というのは生き物であり、インテリ、学者、専門家等の「単純化された無意識の概念」と「政治的正しさの押しつけ」によって、むしろ逆方向に強化されていく、という皮肉な構造で、それは「呪い化した概念の作用」なのです。

「生きづらさの正体」「息苦しさの正体」とか何とか言ってるインテリとか知識人こそが、「生きづらさ・息苦しさの正体そのもの」であるというパラドックスを理解すると、

「我々はあんな連中の使う概念や思考に囚われずに、人生はもっと楽に自由にシンプルに生きてよいのだ」、と気づくでしょう。それが「生きづらさ・息苦しさからの解放」であり「呪いからの解放」です。

 

 

「人間を知らないインテリ」たちが、頭で考えて生み出す「世の中を良くしよう」の概念・理論が、本当はゾッとすほど世の中を醜くしている負の力学にもなる、その逆説、両義性を理解できた時、

人間は、理性とか学者・専門家たちの理論や概念で考えた理想には収まらないことがわかるでしょう。

私はそれを悲観していません、だからこそ人間は面白い、そう思えるから生きていられるのです。本当に今のアメリカの進歩主義的な世界観のような概念で、無理やり日本社会が作り直されたら、その世界には住みたいとは思わない、そこで生きたいとは思わないでしょう。

 

ではまず一曲 Magia – Kalafina // covered by 凪原涼菜

 

 

もし社会(マジョリティが内面化した価値基準)に対して「わきまえない」「反逆する」というのであれば、たとえばルッキズムの場合だと、「整形しない」とか、そういう決意だと思うんですよね。「多勢がそうしようが、私は私のありのままを貫く」ってことだと思います。

ところが、そういう「人は見た目じゃない」「デブとかブスとか差別だ」とか言う人ほど、逆にルックスに囚われ続けていたり、「人からどう思われているか」「どっちの方が有利か」というマジョリティ目線に屈して安易に整形を肯定したり、

あるいは「デブのままで美しい」「そう思わない人は差主義者」みたいな、押しつけがましい要求を飲ませようとしたりします。「そのままでいること」が一番の意思表示のはずじゃないですか。

 

そして皮肉にも、明らかに昔の方が男女共にルックスには幅があり、凸凹がありのままで、いろんな意味で「癖の強い人」が多かったです。変な動きする人とかも多かったです。そして今みたいに男が美容に拘ってなどなく、整形する人も非常に少なかった。

そして表現として「デブ」とか「ブス」とか「不細工」とか、そういう言葉は飛び交っていた時代ではあっても、現実の場では、不均一状態のままでそれなりに回っていたんですね。

今のように、「差異」への評価を無理やり表面だけ平等化しようとして、「劣っていると言わせない」という圧だけをかけて横並びにしようとした結果というのは、

逆に「癖」とか「見た目の醜さ」のような凸凹さを、「マイナスのまま」で生かそうとする創造性の力を奪っていきます。

表立っては誰もブスやデブと言わなくなっても、口には出さないだけで、事実として「デブ」は「デブのまま」で、「ブス」は「ブスのまま」であることは変わらない。

 

逆に今は、言葉や表現を過剰に抑圧する割に、現実の場では、綺麗な顔、綺麗な肌、潔癖なまでの清潔感や身だしなみの均一化への圧力が比較にならないほど強いですね。

結局、言葉だけ、概念だけ、思想だけ先鋭化して、言葉狩りだけやってアップデートとか何とかした気になってるだけで、「見た目へのおおらかさ」はどんどん失われていった。

おじさんが「誰それは美人だね~、綺麗だね~」とか感想言ったり書いただけで、すぐに「ルッキズム!」と一々批判し、モデルがどうの、ミス何とかがどうのと、ルックスが良い人々の自己実現を抑圧し、

そうやって「差別の文脈での思考・観念の型」が過剰に飛び交う割に、そこには内実が全く伴わない。ブス・デブと言われれば顔真っ赤にして騒ぐ割に、自身は息を吸うようにおじさんの容姿を貶し続け、ルックス以外にもあらゆる角度から嘲笑し続け、

果ては存在そのものを「キモい」と平気で否定したりも日常茶飯事。そんな状態の人が同じ口で「○○はルッキズムだ!」とか何とか言っても、もっと酷い上に、無自覚そのもの。バイアス云々いう前に、己自身を観るのが先でしょう。

日常はルッキズムに最も囚われた時代、整形&美容化の時代で、内実共にルッキズムの加速。

ゆえに、ルッキズム化への反逆というのは、過度な美容や整形、潔癖な清潔感という時代の方向性に流されない、ということです。ところが、「私はわきまえない」とか「反逆」とか言っている人ほど、観念の型に囚われて表現の抑圧をするばっかりで、「生き方それ自体」でそれを実践しない。それがリベラルの虚しさ、ですね。

 

「ルッキズムを批判しながら、綺麗で清潔な潔癖なルッキズム界を毎日きっちり生きる」、「能力主義を批判しながら、能力主義の恩恵を大いに受けつつ高学歴リベラル社会の中で自己実現する」、結局はそうしているわけだし、

PTAや小姑のように、ネチネチと細かい批判しながら、内心では「自身の分野でキラキラしたい」という自己欺瞞状態なんですね。他者の表現の自由を否定し抑圧する運動ばっかりやりつつも「自分たちだけは輝きたい」、そんな自己愛運動が一番薄暗い欲望の在り方でしょう。

生まれ持った魅力や能力を否定せず、そのまままっすぐに青空のようにキラキラと生きる、そういう人が燦燦と輝いちゃうのが我慢ならないのでしょう。さもしい世界です。

妬みほど心を卑しくするものはないですが、素直に「嫉妬している」と言える心はまだ可愛いんですね、嫉妬は人間らしさゆえでもあるから。

一番屈折して卑しいのは、嫉妬をそのまま認めるのではなく、相手の価値を下げたいために、知的な概念で合理化することでしょう。そうやって他分野の「他者」を否定するから煙たがれる。

身体の美、身体の能力への劣等感があるから、それでは勝てないから、知性でマウントするのもルサンチマンの合理化の一種で、低次の防衛機制に過ぎないんです。そういう次元からもう卒業しましょうよ、来年こそは。