「俺様・ネット弁慶・一人教祖」たちが出来上がる過程の心理 

 

ネットにもリアル世界にも「俺様」「ネット弁慶」っていう感じの、他者を侮蔑し攻撃しながら「俺こそ私こそ一番」あるいは「俺こそ私こそ絶対に正しい」を言いたいだけの人が結構いますが、

 

リアルでは新興宗教の教祖などにそれをよく見かけるし、一部の教授や企業の上部の人間、政治・権力組織や思想団体などにもみかけます。

 

一人教祖というのは特定の宗教組織に属さない、個人で精神世界的な特定の観念に囚われているタイプや、それ以外の特定の思想、自己の観念のみを絶対・至上のものとする、あるいは「そうしたい」タイプの個人を含みます。

 

一人教祖とリアル教祖は心理学的に本質的な違いはありません。これらの人々の多くは「自己肥大した者」たちです。「自己肥大した者」と「成熟した優れた人格」は全く異なります。

 

現代のような「自己肥大」とは違うタイプの教祖というのは、例えば釈迦やキリスト、老子などのような古来の聖人は現代の教祖とは全く異質です。

 

古来の聖人は社会的な野心・権力意識や相対的な思想的優越意識ではなくて、純粋に物事・心の本質のみを見据えてきたのです。そこには自己肥大化への精神活動は感じません。

 

その真摯な姿勢は自然に民族全体、あるいはそれを超えて世界の人々の心に伝わり、その「型」を守護したものが自然発生的な組織体となったのであり、組織には様々な政治的要素が絡んでいたとしても、伝統的な宗教は本質的には社会・民族・人にとって必要な元型的な存在なわけです。

 

そこにはシンプルな普遍的な元型体験としての真実があるだけです。私はそこに「自己肥大化」ではなくもっと自然な人間精神の全体的な成り行きを見ます。

 

ここで「自己肥大」との関わりが深いとしているものは古来から存在する伝統宗教のことではなく、新興宗教、あるいは何らかの思想・人物を絶対とする団体・組織・あるいは個人です。

 

現代は「本当に精神的な人」というのは、むしろ精神世界や宗教の組織内には僅かしか存在しないものです。何故なら本当に精神が真摯な人であるがゆえに、そういうものには簡単に近づかないのです。

 

本当に精神的な人は、何らかの思想や特定の人物を妄信せず一人教祖にもならず、俺様にもならず、変なオカルト・精神世界的な概念なども好んで用いず、実に柔らかく世界の物事を見つめながら、だだ日々を学んで生きているだけですね。

 

社会的な成功への過剰な獲得欲求はなく足るを知り、特定の組織にも教義にも精神世界的な観念にも囚われていない存在は、「精神的ステージ」への獲得へ向かう競争原理もなく、超人や聖人にになろうなんて強欲さもない。

 

本来、超人や聖人はなろうとしてなるような「獲得対象」ではなくて、何か精神的な物事を真摯に追求していたら、周りの人や後の世の人から勝手にそう呼ばれていた、というものが一番自然なものです。

 

そしてまともで優れた人ほど「凡夫」そのものですね。それは全く恥ずかしいことでも劣った姿でもないです。それを否定する精神世界的な「格付け意識」こそ「異常」な自己肥大の姿そのものなんです。

 

だから精神世界の神秘系カルトなんかで本気で宗教的超人を目指すような強欲な人ほど、逆に酷い状態になるわけですね。そういう修行に真剣な人ほど、自己肥大が大きいからです。

 

そして神秘系カルト組織や教義で卑下され低いレベルに扱われているような、「あまり真剣ではない怠け者の信者・修行者」ほど、実はまだ救いがある意識状態だったりする皮肉が実際にあるわけです。

 

心理学的に見ても、そのような組織にハマる人物は「上に向かうに例して意識がヤバい状態」で、「下に向かうに比例して意識がマトモな状態」です。

 

自己肥大の宗教人から見て「救われない人・悪人」の認定である人ほど「全然まともで救われる健全な人」だったりします(笑)だから妙な組織にハマってしまっても怖がらず安心してそこからサッサと脱出してくださいね。

 

「神やら真理やら精神の霊的進化とやらを人に語りながら、自己肥大し宗教観念に盲信一体化する人」こそは本当に救われない人です。

 

まともな人はそういう自己肥大の罠や、「同化作用」に惑わされることもなく、そのような偏った「欲の道」からは完全に外れて生きていますね。

 

精神的な栄光を求める人ほど、社会的成功を求めるヒトと同じかそれ以上に「欲深い」からなんです。

 

同じ「欲深い」のなら、社会的成功を求める方がまだずっといいでしょう。何故なら社会では、「欲」こそ活動の原理であるのだから、「欲」に素直であることは別に何の自己欺瞞でもないのです。

 

ですが精神世界を語るような人は、自他の「欲」を卑しいもののように否定したり、隠しながら、自らは欲の原理そのもので生きている姿に気づかない、あるいは認めないのだから、

 

そういう在り方は自己矛盾と自己欺瞞をより深めているだけなんですね。それなら正直に生きた方がずっと良いっていう意味です。

 

 

「部分」への一体化と「人格の統合された状態」の違い

 

「自己肥大した者」はたまに「部分の真実」を語ることはあります。ですが、あくまでもその真実は部分的で、一体化による分離・断片化に過ぎません。

 

「特定の元型・観念と一体化している者」にとってそれは、「分離した個人」の人格に全体化してしまっているために、本人にはそれだけ真実となってしまい、

 

そのために「その真実」を世界に投影し、「世界を部分に同化ようとする」= 「唯一絶対化しようとする」わけです。

 

この心理は、別に宗教信者や精神世界だけではありません。 個と社会によく見受けられる光景です。それが大きな問題になるかならないかは、不調和・分離性の強弱や大小のレベルの話しです。

 

人格が統合された状態というのは、様々な元型・観念が部分として同時に内的に存在しつつ、それに一体化することなく否定拒絶することもなく、全体でひとつの人格」に統合され調和した状態です。

 

 人格の統合には「硬直性の強い強迫観念的な統合」と、「調和的で柔軟な動的な統合」があり、これは内的な状態の違いであり、両者は全く質が異なります。前者は分離性の強い統合状態です。

 

自己肥大する状態というのは、様々な部分のなかのどれかの観念・元型に一体化し、全体性からの分離が生じ、その分離した「部分的人格」が全体になろうとする「分裂運動」の結果起きるものです。

 

「部分」としての観念・元型には様々な宗教に発展し得る元型があり、人は誰しもその心の内奥に神的な元型や宗教的な元型などを複数共有しているのですが、

 

その一つの元型に囚われたものが、例えば自らを神と同一視してしまったり超人的な超越者だと勘違いしてしまうのです。

 

それらの観念・元型自体が悪いのではなくて、観念・元型は人間存在の大きな枠組み・型として必要なものです。だからそれとの不適切な一体化による「調和的な統合状態の喪失」に問題があるのです。

 

例えば神体験をした者の一部は、自己を霊的に進化した存在と錯覚することがあり、それは統合状態の喪失であり、それへの妄信はむしろ原始的な意識状態への「退化」あるいは「退行」なのです。

 

健全な人は「部分的人格」がそのまま突き進むことはなく、他の内的な部分である観念・元型がバランスをとることで、全体として人格は統合・され、そして徐々に全体人格としてバランスしたまま成長・進化していくわけです。

 

病的な人というのは、全体としての人格の統合・統制力が弱く、部分である特定の観念・元型に一体化して「人格の統合状態が壊れている人」であり、そのような人は様々な形で分裂的な方向性に向かうのです。これがいわゆる「霊的な人達」の陥る「進化の錯覚」なんですね。

 

病的な人に起きる部分的観念・元型との一体化による「錯覚」は、進化ではなくて退行現象のひとつなんですが、これは特定の思想・哲学・考え方・生き方・価値観・観念・宗教への過剰な囚われの姿として、確認できることがあります。

 

そしてこの観念・元型への囚われが、やがてそれとの完全一体化にまで強められると、次はそれが自己投影として外部世界に投影され、「自己の部分に過ぎないもの」「世界の全体」にしようとする段階に移行します。

 

それは、過剰な「権力欲求・カリスマ願望を持った教祖・権威主義者」へ向かいらゆる大小「俺様」、「私こそ絶対に正しく、他は駄目、クズ、鹿」などいう分離肥大型の人格を形成し、

 

部分と一体化した自己からの投影活動に過ぎないものに突き進むだけになります。

 

一部の新興宗教・精神世界カリスマ・一人教祖がやっていることと言うのは、平たく言えば「俺さまが一番正しく、一番真実を知っいる、他は駄目、だから世界全ては私に従い私を認め、私の真実世界の真とすべきである」、これをベースに発展活動をしているだけであり、

 

それが組織的なものであれ、個人的なものであれ、宗教的なものであれ、他の分野であれ、本質は同じく「自己肥大の精神活動の産物」なんですね。

 

何故現代社会には絶対者を持つ新興宗教 やカルト、一人教祖・俺様観念が多数出現するのか?

 

「人格が統合された人」というのは、それ自体で安定しているために、他者との不要な観念的な闘争原理が生じず、彼・彼女の中で世界はバランスしています。

 

ところが「自己肥大する人々」「激しく分離化した自我状態」のために不安定であり、彼・彼女の中での安定は、世界(周囲)を自分たちと同じ部分になるように「全体化」する以外にはなく、

 

それ故に、自身と相いれない他の部分を徹底攻撃・排斥し、自身あるいは自身の価値基準が「最上・絶対」になる以外には自我の安定が得られない、「貪欲な獲得欲求に飢えた状態」なのです。

 

しかし現代社会は、「人格が統合された人」つまり内的に調和した人格よりも、自己肥大した人の中で「相対的に優位性を発揮する者」を必要とする傾向に偏っています。

 

「相対的に優位性を発揮出来なかった者」は自己肥大した者であれ、そうでないものであれ、社会から低く扱われますが、社会は大小の肥大者の入れ替わり戦いのような姿です。そこには「人格が調和し統合された個人」の必要性はあまり重要視はされないのです。

 

「人格が調和し統合された個人」は、それぞれのリズムとペースで、創造的に自身の生を主体的に生きる動的な中心軸を持っています。

 

何故、社会・企業は「人格が調和し統合された個人」を求め育てる方向性ではなく、個人としての成熟ではなく、

 

均一で全体主義的な同化・同調を求め、さらに個々が闘争・反発し「部分」にバラバラにしておこうとするのか?

 

それは「不安定で分離した脆弱な個の状態」に人を置くことで上部から管理しやすくし、互いを蹴落とし合う対象とすることで下の者達の団結力を削ぎ、

 

そして下の者達が、自己の安定のためには他者への優越以外にないと思わせることが、獲得・闘争の原理に向かわせ、そしてそれが競争社会の維持」「上昇意識の強化」に必要、という風に考えるからなのです。

 

そうすることで、分離化した人ほど闘争的になり、「不安定」からの安定への獲得原理が強められて、「上へ」向かおうとするが、この場合の「上」は、別に「人・存在としての上」の状態でも何でもなく、

 

単に、「不安定」からの安定への獲得原理に突き動かされた人間にとって、「相対的な優越感を得るポジション」というだけのことであり、「人・存在としての上」とは何の関係もないのですね。

 

ところが、闘争原理で相対的に上位に立った者が、「人・存在としての上」のように印象操作されることで、「下」と「上」という優劣のイメージが意識に強化され、

 

それによって人は容赦なく盲目的に、仮想的な「上」を目指し、「下」を否定するように仕向けられているのです。

 

だがそういう個人が人の上に立っても、その人は元々激しく分離化した延長トップに達した人がメインなので、人格は全く統合されてはおらず、内的な調和と安定を持ってないことが多いわけです。

 

トップや上の方の人ほど、そういう人が多く存在する仕組みの社会なので、当然、彼らの分離的な自我の内的な不調和が投影され、世の中の矛盾や葛藤として強く反映されていくのです。

 

そして、その否定的な影響を下の多くの者たちが受けるのです。「パイの奪い合いに勝利した者だけが味わえる優越感から来る安定」を得ているだけのトップや上の方の人たちは、

 

一見は人格が統合されている人のように見えるが、それは世の仕組みが彼らに与えた「見せかけの統合状態」であり、肩書・ラベリング効果の錯覚作用と大差はない。

 

権威、権力を失えば、「その社会が与えた肥大化した鎧の奥」に、矮小な部分化した本来の彼自身の姿を誰もが発見するでしょう。

 

それが彼の潜在的な不安であり出発点だったわけだから当然だが、出発点も到達点も「実は何も変わっていない」ということに気づく可能性があるのは、彼が築き上げた砂上の楼閣を完璧に喪失した時だけしょう。

 

よってこのような人がトップになる現代社会的な人間観・価値観では、当然精神世界や宗教にもそれは反映されて、「自己肥大タイプの教祖」「過剰な獲得闘争の原理」、そして拡大原理を持つ新興宗教や思想の団体となって過激化しやすいわけですね。

 

「俺様・ネット弁慶・一人教祖」たち、そしてカルトや過激な思想団が出来上がる過程や心・精神の歪みの問題は、全て現代社会の在りそのものに原因があるのです。

 

だから心・精神の問題において大切なことは自己肥大することではなくて、「人格が(調和的に)統合された人」になっていくことです。

 

そして社会が人間性において豊かになるかならないかも、現在のような、自己肥大者の修羅的な闘争の延長に形成された相対的優劣のピラミッド構造ではなく、

 

「人格が(調和的に)統合された人」が自然に人の上に立ち、部分の発展ではなく、全体バランスとしての「豊かさの質」を大切にする形になるかならないか、次第でしょうね。

 

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