自我と現実 主観と客観のパラドックス
先週から続いている「虚無」のテーマはまだ続いていますが、今日は「自我」に関する補足記事です。
前回でも書いてきたように「不調和状態・機能不全状態」を生じさせる主な原因は、外的要因と個の内的要因が相互作用して生じる「自我」の運動それ自体なんですね。
「自我」というものがどのように考察・定義され今に至っているのかは、シンプルにわかりやすく「自我の解釈」の歴史をまとめているサイトを参考に紹介します。⇒ 自我(self ; Ich ; moi ; ego)
「自我(self ; Ich ; moi ; ego)」 より引用抜粋
◆ミードからシンボリック相互作用論へ
□「自我(自己)とは、行為と体験の中心となる場を指す。一般に近代社会において自己は原子やモナドのようなそれ以上分割不能な単位としてイメージされやすい。このようなイメージを根底から覆したのが G. H. ミード(George Herbert Mead)である。ミードの主張は次の二点に要約できる。
(1)実体に対する関係の先行性:自己=原子というイメージのもとでは、複数の自己が集まってしかるのちに社会関係が発生するという順序が想定されている。けれども自己が何者であるのかということは、自己に対する他者の反応をまってはじめて決まることだ。
それゆえ自己という実体に対して他者との関係の方が論理的に先行している。(2)自己の二重性:このような他者の反応は、成長に伴って「重要な他者(significant others)」から「一般化された他者(ge
neralized others)」へと抽象化されながら、自己の内部に組み込まれていく。その結果、自己は行為する自己と、その自己を眺めチェックする自己とに二重化する。ミードは前者を主我(I)、後者を客我(me)と呼んでおり、後者が自己の内に先取られた他者の反応である。
ミードのこの考え方は後に「シンボリックインタラクショニズム(symbolic interactionism)」と名付けられ、以後の自己論に大きな影響を与えてた。
この影響は大きく分けると二つの方向性を持つ。一つは主我の働きに力点をおくものであり、この場合、自己の主体性や創造性・革新性が強調される。
もう一つは・・375 客我の働きに力点をおくものであり、この場合、自己は客我の与えたシナリオに沿って役割演技する没主体的な存在と理解されやすい」(浅野[1999:375-376])
– 引用ここまで –
主我・客我
ここで、主我・客我を脳科学と心理学と社会学で総合的に見てみましょう。
主我 =『個の自然自我=大脳辺縁系・脳幹・体とリンクし「先天的な気質・キャラクター」の中心となるもの』。無意識下・潜在意識下で活動し「主観」を条件づけているもの。
主我は生物学的・感性的な自我であり、ハードの部分にあたる中心性。個の無意識以外にも集合的な無意識領域に繋がっており、個と全体は内的にも相互作用しながら相互依存的に存在している。
客我 =『社会的自我は理性・大脳新皮質とリンクし「社会的性格・役割性格」の中心となるもの』。顕在意識下で活動(顕在意識は無意識・潜在意識が意識化されたもの)。「客観」を条件づけているもの。
客我は人間社会的・理性的な自我であり、ソフトの部分にあたる意識の中心性。外側においても個と全体は相互作用しながら相互依存的に存在している。関連過去記事⇒ 自我は弱めるべき? 強めるべき? なくすべき?
そして主我と客我は相互に作用するものです。つまり「自我」は内外の相互作用で形成されているわけですが、外が「社会」とすれば、内は「自然界」を本質に持つわけですね。
「社会システムの変化」「自然界システムの変化」、この内外変化に合わせて自我も相互作用を調和するよう変化しているわけです。
そしてそのバランスが大きく偏ったとき、内外の異常となるのですが、それを定義・分析するのはあくまでもその時の社会基準によって形成された社会的自我(客我)による客観性なのです。
そして内外の不調和による異常・不調を「感じる」のは、「内的な自然界」の中心性である「主我」による主観性なのです。
「客我」は共有常識の範囲ではある程度は質的な同一性がありますが、「主我」は相対的なものであり、それぞれの内的な状態によって質的に異なるものです。なので、「客我」を中心に「異常・不調和」を定義して共有した方が、一見良いようには思えます。
ですがそれは「その時の社会システムと個の調和的関係性にとって」、という限定的な意味であり、ヒト・自然界の全体性にとってそれが最適かどうかはわからないわけなのですね。
ですが「客我」も「社会」も、主我との相互作用で形成されており、完全独立した実体ではなく相互依存的なものであるために、
「客我」の基準それ自体の真実性は誰であれ絶対とは言い切れないものではあっても、ヒトにとってはある程度の普遍的性質はある、とも言えます。
その社会に最適化された中心性を持つ意識なしに社会・社会生活は維持できませんが、「社会的自我」という特異な意識の中心を基準にして自己言及する以上、同時に「終わりなき思考パラドックス」を生じさせるため、
思考パラドックス発生と同時に「終わりなき脱思考パラドックス」が生じ、必要とされ、そうすることで社会的自我及び社会は維持されているのです。
以下再び「自我(self ; Ich ; moi ; ego)」より引用です。
◆自己言及パラドクス
□「主我と客我のどちらに力点を置くにせよ、両者の関係は「自己が自己に言及する」というものであり、これは論理学でいうところの「自己言及(self-reference)」の形式に該当する。この形式は一般に当該の命題を必ず真偽未決定の状態にしてしまうことが知られており(例えば「この文は偽である」)、これを「自我言及のパラドクス」と呼ぶ。
自己の場合で言えば、これは、「私が何者であるのか」ということについて一義的な答え(アイデンティティ)が与えられないということだ。
自己だけではなく、自己言及的形式を持つシステム全般を分析対象とするニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann)の考えでは、このようなシステムは、自己言及のパラドクスを何らかの方法で首尾よく脱パ
ラドクス化(解決ではなく)し続けることによってのみ存立している。この場合、主我・客我どちらに力点を置く解釈も、脱パラドクス化の方策としては等価な選択肢であるということになろう」
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
今回のテーマと多少関連する「 私が十代の頃に書いた文」を以下に紹介します。自我のとっての「知る」「見る」という主観・客観のパラドックスを書いたものです。
「私」は「真実」を記憶できない。記憶されたものはすでに「真実」ではなくなっている。同様に「私」は「現在」を記憶できない。「記憶」とは抽象化された「ありのまま」であり、言語化された、イメージ化された「ありのまま」である。
「記憶」が現在に介入すると「現在」の直接知覚が遮られ、その結果「記憶」が「現在」より重要性を増してくる。それは繰り返されることで力を増してゆく。
「記憶」を通して観た「現実」は常に「記憶」によって「非現実化」されるため、「私」は「現実」に純粋に直接触れることができない。「私」が観るものは「現在」でなく「記憶」である。
「私」が対象に観るものは「ありのままの無垢な躍動の姿の、生きた瞬間々々のリアリティー」でなく、「ありのままに投影された記憶の、見慣れた相手の姿」である。
「私」は「知られたもの」であり、それは「知られざるもの」に「知られたもの」を投影することにより「知られざるもの」を知ることが出来ない、というパラドックスに閉じこめられた状態である。
「本当に知る」ことが出来ないため常に知ろうとするか、あるいは段々感じることが失われていく心になってゆく。
そして脳が下した結論の小網に捕らえられ定義されまとめあげられた断片の数々は、合理的な思考の整理によって、合成蓄積され、それらの集合記憶と経験が「知られたもの」として、「真の理解」に置き換わる。
「私」は「置き換えられたありのまま」であり、「偽者」であり「影」である。「私」は結果であり、原因であり、「矛盾」である。「解決」はあらたな「問題」を生み、「問題」が「解決」を生む。
「私」は「解決しようとする」ことそれ自体で「問題化」し、「問題」が対象化されることであたかも「それ自身で問題が存在する」と錯覚する。そして「ありのまま」は「自己投影」されることにより常に取り残される。