風水 パワースポットのウソとホント  体感的検証シリーズ

 

体感的検証シリーズpart1では、風水 パワースポットの嘘とホントを見ていきますね。風水パワースポットが根強く人気がありますが、風水と言えば京都皇居は元々風水の理論で計画的に作られたものであり、

また神道の世界観や神社などの古来の建築物の中には、風水的な要素が取り込まれた形で存在しています。風水もそうですが、日本古来の建築物というのは自然と調和したものなんですね。

 

私のブログでも「パワースポット」は幾つか紹介していますし、今後新たに紹介していくつもりですが、私のパワースポットの定義は二つあります。

ひとつは森林セラピー温泉療法などの自然療法的な意味での癒しが期待できる場所です。

 

人間は元々、古来は誰もがインディアンのように大自然の中で暮らしていた地上の生き物の一種であるのだから、人間社会の時間とリズムに疲れた人が、大自然のパワーに触れ心を休めて自然の緩やかな時間の中でくつろぐことで、リフレッシュしたり元気が出てくるというのは極自然なことであり、

 

それが登山・ハイキング・温泉・ダイビング・スキーなど、どのような形式であれ「自然が人を癒す」ということは今更言うまでもないことです。

 

          大自然のパワースポット 上高地

 

二つ目は、神社や世界文化遺産のような特定の場所にあるパワースポットです。この場合に人が感じる「あの何か気持ち良い感覚」には、「安らぎ」「神聖さ」「清らかさ」「透明感」「光」「あたたかさ」など人によって様々なものがありますね。

 

それでは何故そう感じるか?と言えば、一つは純粋に生理的な体の感覚であり、その場所がとても綺麗で清浄に管理されていて、周りの景色も綺麗な場所であるから体が自然に気持ちよさを感じる、という極当たり前の快の感覚であり、

 

そしてもう一つは、精神世界系の人々が大好きな、いわゆる「神霊・神仏」エネルギーを感受することで起きる内的な感覚というものですね。

 

前者はよくわかるとして、後者の「神霊・神仏」のエネルギーの正体とは一体何でしょうか? これに関しては長くなるので次回の記事で詳細を書く予定ですが、これはスピ系の人が使う「霊的なパイプ」という概念の正体と密接に関わっています。

 

「霊的なパイプ」とは何か ミーム・遺伝子・集合的無意識 

 

うわっまた新たなスピ用語登場!って思う方もいるでしょうが、このブログ読者には心・精神の病の方や一般の方以外にも、霊的な感性のある方やスピの関係者も結構読みに来られているようですので、

 

まぁその方々が批判的であれ好意的な読者であれ、読者は読者なので、彼らにもよくわかるようにわざわざこういうスピ用語を使用しているのです。

 

          神社のパワースポット 諏訪大社秋宮

 

ではここで今回のテーマに参考になる「神社新報社」の記事を紹介します。

 

「神社新報社」 より引用抜粋

「論説 パワースポット 安易な伝統破壊は慎むべき」

「パワー」といふ言葉の意味が、正しいニュアンスで伝へられてゐるのかは定かではないが、確かに神域に入り、そして参道を歩くとき、言葉に表ことのできない感覚に包まれ、そして神前に頭を垂れて祈念を捧げ、我々は先祖代々神の加護をいただく感触を受けてきた。

言葉では説明できないやうなかうした感覚や人智を超越した存在を「パワー」と呼び、またそれに満ちあふれた場所が「パワースポット」として紹介され、神社仏閣などがその代表格として取り上げられるのは、頷けることだ。

精神的に満たされない人々が、救ひを求めるやうに、現代人が人知を超え存在を感じ、神社仏閣などを訪れることに加へ、いはゆる「パワースポット巡り」に価値を見出してゐるとすれば、神社人もその動きに注視せざるを得ない。

「パワースポット巡り」を特集する書物などを見ると、神社への参拝そのものを「パワー」を受ける手段として紹介し、手水や拝礼の正しい作法を紹介してゐる例も数多く見受けられる。

また、神域にある巨石(磐座)や縁ある樹木(神木)を紹介してゐる例もられる。かうした磐座や神木は、神社への崇敬の念とともに、伝統的な信仰の見直しをも含んでをり、神社人として着目すべき点もある。

では、なぜこのやうな紹介が多くなったかを考へたい。現代人は神社に何求め、神社はそれにいかに応へるのだらうか。その観点から見れば、人々は神社に「パワースポット」との言葉が現す存在性を求めてをり、

それを追ひ求める行為が、精神的に満ち足りないことから来てゐるのであば、神社がこれまでおこなってきたさまざまな活動を今一度見直し、現代人の要望に応へる努力をしなければならないことはいふまでもないだらう。

しかしながら、これまで神社が守り伝へてきた信仰形態を否定するやうな傾向を持った事例も出現してゐることには注意が必要だ。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 論説 パワースポット 安易な伝統破壊は慎むべき

 

 

 

では次に、「何故特定の場所なのか?」というと、「地理風水」がそこに関わってくるからなんですね。「地理風水」っていうのは京都皇居などが有名な具体例ですが、「大地の気の流れ」を扱う「感性的な学問」です。

 

科学的な風水」なんていうものは「自称」以外には世に存在しません。「非科学的なもの」それが風水です。そしてそれでよいと私は思うわけです。

 

「科学で認められたもの以外存在してはいけない」などという感覚は私にはありません。カルトのように私が強く否定する場合、それが「科学的でないから」なのではなく「有害だから」という理由だけです。

 

ですが、テレビで著名な風水師の方々が言ってるようなことや雑誌に書かれていることは、個人的には殆どはあまり肯定はしていません。それでも私自身の検証と感性によって納得できたものに関しては一部認めてます。

 

何故かというと、以前に書いたように私自身が感性的に「気」を経験し、その効果も長年検証してきたからです。これは風水に限らず、体内の気としての「気功」でも同じで、一部は感性的に認めています。

 

一般の方のスタンスとして、こういうものは「ほどほどに信じてればいい」と私は思うんですね。風水やパワースポットというものは民間のささやか癒しのひとつ、というくらいの軽い感覚で良いと思います。

 

こういうものを原理・根本主義的に盲信するのは愚かで無意味ですし、また新興宗教やカルトなどが我田引水的に取り込むことがよくあります。そのような連中は何でも我田引水し信者獲得教義ツールとして使いますが、

 

風水にしても気功にしてもヨガにしても老子やタオの教えにしても、それらは新興宗教やカルトや一人教祖などとは全く無関係に存在する他国史的文化遺産であり、その民族の伝統・ルーツです。

 

ですので、それを学んだり実践したりする際に神秘系の新興宗教やカルトなどに関わる必要は本来一切ないのです。それを窓口的に使っていても一切相手にしなくていいのです。

 

最近のカルトやそれに類似したオカルト系の組織及び個人を調査分析して思うひとつの傾向として、キリスト教、道教、密教、仏教、ユダヤ教、ヨガ、神道などの多数の宗教的な概念を我田引水的に教義に取り込んで我がものとするようなやり方が目立ちます。

 

その国の文化伝統に調和した形で真摯な取り組みをしながら、社会とも調和しつつ、自己の生き方にプラスになる形で実践している「本家の方々」にとってみれば、

 

カルトに我田引水された上に批判までされ、しかも勝手に金まで取って貪欲に営業活動までされて、まさに迷惑の極みでしょう。

 

宣伝活動としての看板に芸能人や著名人を巻き込んだり成功者を利用する手法は、マルチ商法と非常に良く似ていますね。マルチとカルトは構造が非常に似ています。マルチの構造もいずれ心理学的な詳細検証の記事を書く予定です。

 

もし、あなたがどうしても何か実践的な修行的なことをやりたいのなら、まず宗教的な知識などは本屋や図書館で幾らでも手に入りますし、実践する場合でも多額のお金などかけずに個人レベルで無料で十分に出来ます。

 

カルトやそれに類似したオカルト系の組織は、「本屋や図書館でも十分手に入る他人・他国の文化や思想」をかき集め、ちょっと編集して我田引水した程度のものを、さも「ありがたい秘宝」のように専売特許にして、

 

それで「真実を伝える唯一の存在」のよう傲慢化しふんぞり返って、情弱信者から高額なお金を取っているだけの「浅ましい強欲な搾取のマルチ商売」なんですね。

 

また神社などのパワースポットをオカルト的に勝手に解釈してオカルト実践の場所にしているような人々も結構いますが、元々神社はそれぞれに「文化社会に調和した集団や個人」が存在し、彼らの代々の維持・運営で成り立っている伝統文化でもあるわけなので、

 

そういうものを学んだり関わる時は、歴史的な伝統文化の正式な継承者で同時にキチンとした調和的な人格を持つ人だけに関わって正式に学ぶ方が健全でよいですね。

 

風水 パワースポットの効果は絶対的なものではなくあくまでも副次的・補足的な癒し、というくらいの感覚なので、一般の方に向けたアピールとして過剰な効果の宣伝は不適切だと私は感じますが、

 

「ある種の感性の発達した人」にとっては「内的な変化の感覚」は想像以上に大きなものであることも付け加えておきましょう。

 

 

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