「語り」と作用の逆説
世の中には様々な「語り」がありますが、今回は二人のジャズ界隈のプロの方の語りを参考にしつつ、そこから範囲をさらに広げて「語り」の作用の逆説的な力学をテーマに考察しています。
「天才ジャズピアニストゆうこりん」さんは技術は高いんですが非常に口が悪く、でもまぁここまで突き抜ければ一周回ってキャラとして面白いともいえる。
なんか「何かを極めた陰キャ」と「テキトーで雑な陽キャ」のよくみる二項対立の構図にも共通しているように思います。
「何かを極めた陰キャ」からすれば「テキトーで雑な陽キャ」なんて「歩く粗」みたいな感じで、ただ率直に事実を陳列するだけで粗探しのようになるわけですが、しかし率直に事実を陳列するだけでは「テキトーで雑な陽キャ」には全く届かないので、どんどん口が悪くなっていくという感じ。
そして「何かを極めた陰キャ」もひとつのハイコンテクスト文化に収まっているとはかぎらず、ハイカルチャー、メインカルチャー、サブカルチャーを横断していたりします。
陰キャのクラスター、陽キャのクラスター等の住み分け的なものがあったり、二項対立があったりもしますが、あまりそういう境界がない人もいます。大雑把に分けて三つとのカルチャーがあるとはいっても、それらもさらに細かいクラスターに分かれています。
「【脱・二項対立】音楽の〈ハイカルチャー/メインカルチャー/サブカルチャー〉三つ巴モデルを考えてみる」 より引用抜粋
僕もメディアの表層にある音楽だけに満足しているわけではまったくありません。しかし、かと言って、いわゆる「音楽好き」の人たちが『もっとこういう音楽を聴くべき』と定義している音楽に必ずしも共感してきたわけでもないので、非常に立場が難しいです。
そういった「浅い音楽/深い音楽」のような、固定化した二項対立の構造や考え方を相対化していきたいと感じていて、今回提唱してみたいのが、三元論的なモデルです。ここでは、
ハイカルチャー/メインカルチャー/サブカルチャー
というふうに分けてみました。音楽に関する様々な考えや分析にあたって、各立場それぞれの根底に無意識に存在してしまっているであろう「こっち側/あっち側」というような二項対立的な意識の前提に換えて、最低限もう少し、このような三竦みの構造くらいは想定したほうがいいのではなかろうか、という提案です。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
インスタ映えと劣化コピー
「劣化コピー(といわれているもの)」は必ずしもネガティブな面だけでなく、「流行る」とか「突出して売れる・人気が出る」には「わかりやすさ」が必要で、逆によりコアなものほどマイナーになっていくのに対して「劣化コピー(といわれているもの)」&編集能力が高い方が時の人になりやすい傾向はある。
商売とか活動を広げたいとか、広く人気を得たいとかそういう方向性であれば、「劣化コピー(といわれているもの)」&編集能力によって最大公約数的なものを生産することを意識していた方が数字的な結果は出やすい。収益化を第一に考えるのであれば必要な能力ともいえる。
そもそも資本主義社会においてはそれは悪でもなければ「劣化」でもなく、確かな成果であり、一般に「成功」と呼ばれ社会的にも高い承認が得られもする。だから多くの人はそれを「価値」だど信じそれを求める。
そして玄人ウケはなくても、「まずそのジャンルが流行る、スポットが当たる」ということがなければ「聴く人」がいなくなっていくわけだから、そのジャンルはどんどん縮小していって最悪消えてしまう。「広く浅い薄っぺらいもの」も必要なんですね。
「浅さ」があるから「深さ」がある。「弱さ」の質があるから「強さ」の質がわかる。質の差異は相対化されることでわかるようになる。そして何かの「高さ」は何かの「低さ」に支えられている。
補足ですが、この捉え方はレンマ的な捉え方(思考の型)なんですね。現代先進国社会はロゴス的な捉え方(思考の型)で物事を解釈するのが大方の傾向だから必然的に二項対立になりやすいのです。
日本人と西洋人は原初の思考の型が異なっているわけですが、現代の科学的な文明社会は西洋の思考の型が中心に作られているので、先進国になればなるほど西洋的な思考の型が中心になっていくわけです。
東洋、すなわち仏教の論理は「レンマの論理」と言いまして、例えば「A」というのは「非A」があって初めて存在する、言い換えれば「善」は「悪」があって初めて存在する。ゆえに「善」も「悪」もそれ自身では存在し得ないが、しかし現実には存在している、という論理なんです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、根本にあるのは「すべてのものは互いに相まって存在している」という考え方です。引用元 ➡ 「ロゴス」と「レンマ」-風土がつくる思想
ただ、ロゴスとレンマという概念に囚われすぎると今度はそれがひとつの二元論となり二項対立のもとにもなります。「曖昧さ」がもたらす弊害もあれば「明確に白黒に分ける」ことの弊害だってある。それぞれに強み、長所もある。
どちらか一方というよりも、ロゴスとレンマという思考の型が互いを補い合うことでそれぞれの弱点や短所を補うということですね。
話を戻しますが、一般的な意味での「インスタ映え」は「テキトーで雑な陽キャ」によるエンタメ的な予定調和でもあり、「お互いわかって」それを楽しんでいる。「きゃーこれ可愛い、これ綺麗!ねぇ見て見て!」的な単純さとか承認欲求とかって可愛い次元なんですね。
あの全く非本質的な無邪気な発話、そして爽快なまでに「軽い」ゆえに創造の邪魔にはなりえない。
仮にそんな無邪気な「軽い」ものが創造の邪魔になるというのであれば、それはもはや権威主義的な手法でしか価値や「重さ」を認めさせれないほど「本質とやらを語る人々の創造性それ自体」には生命力がないということの証でもあるだろう。
己が創造性の生命力の弱さに気づかずに、相手をサゲることで己が価値をアゲようとするかぎりは、「本質」などといっても物悲しいだけ。「本質」があるかどうかという「哲学的な問い」以前に、ほんとうにそれがヒトの本質、本質的なものであるなら、多くのヒトの身体に効いてくるはず。
「私の語る言葉を理解すればあなたにもその価値がわかってくる」というようなものはそもそも「本質」ではない。
妙に逆張りして「俺はもう一段上の次元にいる」みたいなものを常に言葉に乗せてくる人のほうが、単純な「いいね」の承認では満足できない権威主義的なものを有していることがある。
「こんな単純な連中とは違う、もっと深いこと考えて表現しているんだ、なめんなよ」的なプロ意識の背景にある「無自覚なインスタ映え精神と承認欲求」の方がずっと「他者に認められたい、認めさせたい」の思いが強く、高圧力ではあるが、
その過剰なプライドが技術の上達に繋がっているともいえる。しかしこだわりが強すぎるあまり、「テキトーで雑な陽キャ」が(言葉でイチイチ言わないだけで)わかっててチャラいことを楽しんでやっていることが意外にわかってない。
むしろ「そんなことにムキになるプロ精神とやら」のほうがチャラい。
しかし、「自分の優れている点を見せつける」というマウントは進化心理学的にみればサピエンスの競争原理で、その視点でみればSNSは「言語的な野生の王国」でもあるわけですね(笑)
あの子、承認欲求が強いね、ではなく、あの子、他人に自分の優れている点を見せつけて嫉妬させて愉しむのが好きだね、という方が適切なケースは多い。人間にとって他者は全て遺伝子生存競争のライヴァル。他者に劣等感を抱かせる、私は負け組だとうつむかせ軽い鬱状態に追い込む。これがSNSでの殴り方 https://t.co/U1SROaZRhv
— エボサイ(EvoPsy) (@selfcomestomine) May 29, 2023
陽キャの「雑さ」は陰キャから見れば「短所」に見えるかもしれないが、ほんとうはそれこそ陽キャの「長所」であり、世界を支えている力のひとつでもある。そして陰キャの緻密さ、神経質さも、陽キャの大雑把さ、図太さに支えられている。
ではここでもうひとつ動画を紹介しますが、この動画に登場するミートたけしさんは先に紹介したゆうこりんとは異なる考え方の人で、同じジャズというジャンルのプロでありながらここまで違うんですね。
私はどちらの考え方もよくわかるというか、「(語る人の文脈において)ここをないがしろには出来ない」のポイントはそれぞれが間違いではないと思うのです。まぁ「口が悪い」のは間違いなくゆうこりんです(笑)しかしどっちも面白いキャラを持っています。
その仕事なり環境なり生活なりが成立しえるのはどうしてか?ということ忘れて、下部構造を支える様々なものをまるで無視した高慢な言説、昨今のSNS等で目立つ人文系、学者、インテリ、有識者等においても「壇上から愚民を説教するだけみたいな存在」はよくみかけます。
私は、一日100回は、自分に言い聞かせます。わたしの精神的ならびに物質的生活は、他者の労働の上に成り立っているということを -アインシュタイン
「○○がわからないのはお前たちが劣化したからだ」的なそういう「玄人的言説」こそが「その分野全体を劣化させている」ということへの無自覚さ、そしてそういう人が躍起になればなるほど「劣化が進む」という逆説があります。
「言ってることが正しい」から「正しい影響を与える」とは限らないし、「本質的なことを言葉で語ってる」から「(非本質的なことを語る連中よりも)より深い作用を与えている」とは限らない。
そして何を前提にするかで評価は変わる。身体知の場合、そこを掘り下げていけばいくほど個人差は非常に大きくなるから、わかる人は減っていくのは仕方ない。
学問もそれに似ているが、身体知と学知は質が異なり、無意識における身体知の深さは最大公約数的な理解と反比例するが、ロゴス的なものは「伝え方」が重要なので、言語化能力が高く伝え方が上手ければ最大公約数的な質になり広く伝わるのでその領域の人口密度は高くなる。
とはいえロゴス的なものにしてもより複雑なものや高度な専門知はそれだけでは伝えられないので、そこに向かうほど狭き門になって人口密度は下がっていくとはいえるでしょう。
批判と「本質的なことの語り」の逆説
その人の批判の前提にたって考えればその考え及び気持ちはわかりますが、
しかし「そういう姿勢ゆえに人々は離れていく」「相手にそれがどう作用しているのか感じることもなく滾々と語るゆえにむしろ相手はそれを忌避するようになる」という逆説。
「諭されれば諭されるほどさらにそれが嫌いになる、好きだったものすら嫌いになる」というこの逆説、まぁ生まれつき根が素直でよい子なら別ですが、人は多少はそんなところがある生き物で、その反応はとても自然なものでしょう。
「自分でやろうとしたことを先にいわれるとやる気がなくなる」というよくあるアレもそうなんですが、こういう逆説がわからないで相手を知らず知らず「潰している」「(無自覚に)抑え込んでいる」ような人は結構いる。
「内発的なもの」だったのが、言葉で教え諭すような外発的な力学が加わり続けた結果「やらされているもの」となって嫌になるんですね。本質的なことへの理解もそれによく似ています。
実際は「非本質的なことを語る」も「本質的なことを語る」も「言葉」という次元において等価であり、それどころか「言語に向いていないものを言語で聞かされる」ことでかえって「それ自体を掴むまっさらな感覚のしなやかさ」を失う場合すらある、という意味では「非本質的なことを語る」の方が全然良い影響を与えているとすらいえるんですね。
「敢えて本質的なことは語らず、非本質的なことから入る」というのは、「本質的なことを語る人」からすれば「浅はか」「不誠実」、「偽物」、「そんなものは○○ではない」と言われがちですが、
実際は「玄人にそういわれて素直に内面化する人」の方が「言語的にしかわかっていない人(しかし自身は本質的なことがわかっていると思い込んでいる)」になりやすい。
「敢えて本質的なことは語らず、非本質的なことから入る」というのは、「語る側」としては「(一見すると)本質に反している」ようにみえても「語られる側」からすれば、本質に内発的に触れていく機会(内発的な取り組みの自由)を多く作っているともいえる。
だから「(一見すると)不誠実で浅はかな知に見える人」が実は「相手の創造性そのものに協力的な存在」になるような関係性が成立し、
逆に「本質的なことを語る深い智がある人(のようにみえる人)」がその逆の作用を与えていたりする関係性になることがある。「玄人の語りほどかえって創造に邪魔」という逆説はそうやって生じてくる。
「それについては(敢えて)積極的に何もしない、語らない」ことの方が、何とかして語り伝えようとすること以上に「それを生きたままにする」ということがある。
逆に「それについて語り伝えようとすること」によってそれ自体が言葉による観念化によって固定化され硬直してしまう。だから○○が生命力を失い、衰退し失われていく。そしてその原因を「語る側自体」に見出すことが出来ないままだから悪循環が終わらない。
正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。-アインシュタイン