日本人は何を考えてるのかわからないか? 「ホンネとタテマエ」「みせかけの秩序」 

 

よく日本人はタテマエとホンネを使い分けてて本心がわかりづらい、とかいう批判的な記事を見ることがあります。そうでしょうか?これはむしろ逆ではないでしょうか?私は(ある面では)日本ほどわかりやすいと感じる民族はいません。

 

中国・韓国・北朝鮮・ロシアとかイギリスとかアメリカとかの政治家の方が、(ある面では)よっぽど何考えているのかわかりません。

 

例えばアメリカ人は日本人に比べれば自己主張が強く、自身を積極的にアピールし表現するでしょう。ですがだからと言ってそれが全て正直なホンネの現れでしょうか?

 

例えば、日本人が本当にタテマエ上手で本心を見せないのが上手いのなら、政治ももっと巧妙なはずでしょう。ですが、日本は政治はハッキリ言ってヘタだと思います。

 

実際に政治的な交渉や戦略や取引にしたって、海外の先進国の政治家って一体腹の中に何隠してるのか?ってなかなか見えにくい感じなんですね。

 

会話から単純にそれを読み取るのが難しいということは、本音は上手く隠され言葉の表現が編集されているということですから。

 

そして逆に本音っぽく見せた煽りや、本音のちらつかせなども彼らは巧妙じゃないですか。つまり「ホンネとタテマエを上手く使って揺さぶってくる」のはむしろ彼らであり、それが上手く使えていないのは日本の方なんですね。

 

スローガン演説やプレゼンテーションなんて海外は実に洗練されていて、タテマエでありつつ同時にホンネ的な熱意のようなものも感じさせますが、かといって彼らの言ってることと実際の本音の中身が、全て同じというわけでは勿論ありませんよね。

ホンネ的に見えるような自己表現もパフォーマンスであり、ある種の戦略でもあり、だからそれはやはりタテマエの部類であるわけです。

 

ところが日本人は建前が単純過ぎて、いかにもタテマエって感じで、本音も単純過ぎて、いかにもホンネっていう感じなんですね。一言で言うと正直で、良くも悪くもが下手なんです。

 

好きな相手への愛の表現を見てもそれは顕著です。例えばアメリカ人でも日本人でも相手を本当に好きな時のその気持はどちらもホンネでしょう。ですがそれをどう表現するか?という点は大きく違いますよね。

 

ただそっけなく「好き」と言うのか、相手の心にどれだけ熱く感動的にその想いを語りかけるか、というのでは違いますよね。日本人はそういうのがウソ臭いと感じるんです。

 

それが真実だったらイチイチ何度もオーバーに表現などせずに、「好き」とシンプルな表現をちょっと照れながら数回伝えればそれで十分だろう、と感じる人の方が多いのが日本であり、

 

いろいろ言葉を編集して、上手に情熱的に長く言い過ぎる方がかえって「ウソ臭い」と感じるのが、日本人的な感覚ではないでしょうか?

 

毎夜のように、「君のことを愛しているよ」なんて、相手の目を長々と見つめ続け甘い表情で熱く何度も言うなんて、そんなウソ臭いこと恥ずかしくて出来ないという方が多くないですか?

 

同じ意味のことを言葉を変えて何度も熱く上手に語るのではなく、シンプルにその事実のみを真顔で相手に伝えるのがホンネだと、そう感じる人の方が日本人には多いのではないでしょうか。

 

「わかっていることをなんで何度も言う必要があるのか?」「本当にそう思っているのに、証明・確認のための言葉・表を工夫して何度も伝える必要はあるのか?それは察するもだろう」これが多くの日本人的な感覚ではないでしょうか。

 

カオスとみせかけの秩序

日本人は未だに以心伝心の国です。「以心伝心」、つまり多くを語らずとも互いのことがわかる、というほどわかりやすい国、ともいえる、その意味で「日本人ほどわかりやすものはない」と表現したんですね。

 

人の気持ちを察する文化であり、人にもそう察して欲しい文化なのです。そしてそれが空気を読む、あるいは空気を読め!にも繋がっていますね。

 

だから良い場合もあり悪い場合も起きてくるわけですね。世界がみんな日本人のようであるわけではないし、日本人にはそういう人が多いからといって、全ての日本人がそうかというとそうでもないからです。

 

ホンネもタテマエも単純過ぎで実直過ぎるんですね。だから表向きのアピールや話術は、海外の先進国の方が洗練されているように感じるんです。

 

「日本人はタテマエばかりで本音が見えない」のではなく、ホンネタテマエもお互いに見え過ぎるんです。だから察する文化なんですね。

 

そして日本は豊かな国なのに、慈善事業やボランティアなどが海外の先進国の中で活発ではないのも、「本当に善いことはホンネからの正直な気持ちでやるべきことで、上手なタテマエでやることなら全部偽善だ!」になっちゃうんですね。

 

これもやはり単純過ぎるホンネとタテマエの感覚なんです。そういうところが馬鹿正直なんです。そこには白か黒かしかないような境界線があり、融通が利かないのです。

 

役に立ち喜ばれるタテマエなら多少の嘘が入っていてもいいだろうし、そのまま表現しても役に立たないしそっけないホンネなら、もっと役に立つ感じに多少編集して表現すればいいだろうという、良い意味での不正直さが歓迎されないんですね。

 

ですが「不正直」というのは本当に不正直だけの意味しかないか?というと必ずしもそうではありません。相手の役に立ちたい、喜ばせたいというのも立派に「正直な気持ち」なんですね。

 

そこに多少「他のタテマエ」が混じっているからといって、そこに含まれている「正直なもの」まで全否定するのはどうでしょうか? だから「生粋のものしか認めない」というのは単なる馬鹿正直であり、

 

そういうものだとむしろ自他共にキッチリ制約され過ぎてしまい、単純なホンネとタテマエしか表現できなくなって、変幻自在な創造的な表現能力を高めにくくしてしまうんですね。

 

その結果、人の目を気にし過ぎ、多くの人がやってることにただ同調するだけとか、ありきたりな無難な表現しかできなくなるとか、自己を客観視し過ぎて生真面目に過ぎて考えすぎて大胆に思いっきりよく動けなくなったりするわけです。

だから日本人は、状況がカオスになればなるほどそういう環境下では上手く生きれないため、生きにくい世の中と感じるのでしょう。

 

ですが時代は徐々に多様性の時代に向かっています。それはカオスの中に生きることでもあることを意味しているのです。

 

日本人のカオスに対する不安は過剰です。だから「みせかけの秩序」に固執・しがみつくわけですね。それは、全てが単純でわかりやすくないと、今までのように「察する」ことが出来なくなり不安になるからです。

 

「全てが単純でわかりやすい状態」と言うのは、「みんなが同じで平均的」ということが条件になります。そこに「みんなと違い平均的でないもの」「わかりにくいもの」がいる、在ると、ある種のカオスを生み、不安になるわけです。

 

そのカオスへの不安から負の同調圧力イジメが生まれることもあるわけです。(もちろん原因は他にもありますが)

 

ですので日本人的な秩序というのは本当の秩序ではなくて、実は「みんなが同じで平均的」、「わかりやすい」ことが前提条件になっている秩序なんですね。何考えているかがわからない人がそこにいては不安なのです。

 

ですが「何考えているかがわからない人」が悪い人とは限りません。にも関わらず、そういう人はカオス感を高め不安感を高めるという理由だけでイジメられたりもするんですね。

 

そして「カオス」というものを排斥せず、カオスの中でそれを見つめ、カオスを生かしたまま調和させ統合する時、そこには本当の意味で調和と秩序が生まれます。 

 

日本は本当の意味での調和をまだ形成してはいません。排斥と同調圧力によって、みせかけの秩序を維持しているにすぎないのです。

 

カオスを生かしたまま調和させ統合するというのは、「無意識を統合し人格を統合する」ことにもリンクしています。無意識はある種のカオスであり、顕在意識というのは統合化・秩序化された意識ということも出来るからです。

 

だから社会の在り方が変われば、人格の在り方も変わるのです。社会に本当の意味での調和と秩序が生まれているのなら、そこに生まれてくる子供たちもまた本当の意味での調和と秩序に向かうでしょう。

 

社会がみせかけの秩序を維持しているにすぎないののであれば、そこに生まれてくる子供たちもまたみせかけの秩序に向かうでしょう。そしてそれが今の日本の姿です。

 

 取り残された「売春島」に浮かぶもの 現代社会のリアリティ」 より引用抜粋

「「悲劇」に群がる人々 退屈な日常」

(前略)
光の存在をどこにも感じることができない、闇の中にある時がもたらす不安は、人々をある種、宗教的な社会現象の中に再編する。

単純で分かりやすい言葉・経典(答え)を求めては、「これを信じろ」と社会は凝縮し、価値観の異なる「異教徒」を、でっちあげてでも探し出しては叩き潰す。

「あいつらはおかしい、とんでもない」と、あるいは「こっちを信じれば救われる、さもなければもはや……」という、陰謀論的なるもの、終末論的なるものの発生にドライブがかかり、

そこに浸ることで生きる意味と充実感を得る者が出現する。今、求められるものは、闇の中に、安心できる象徴をでっち上げたり、無理にありもしない光を想像することではない。

先行きを見通せない閉塞感の中で立ち止まった時に芽生える現実が示す、その恐怖感から逃れてはならない。

目を凝らしながら、闇を闇として見つめ、少しずつでも歩みを進める。手の届く範囲にあることに軽率に飛びつくことをやめ、複雑なものを短絡的に単純化すべきではない

ろくに手足を使ってもいないのに分かりやすい答えが見つかりそうになったとしたら、それは先入観や偏見でしかないと拒絶すべきだ。

丹念な作業の末に、闇の中にも目が慣れてくると、大きく感じていた「見えない化け物」が、たとえ自分の手で扱えることはなかったとしても、自分と同じような何かであることにも気付くはずだ。

「あってはならぬもの」が漂白される時代に

(前略)
私たちの社会は強い規範と、それが達成されない矛盾の中で営まれている。暴力的なのに暴力的であってはならない。

カネに汚いのに、カネに汚くあってはならない。怠惰なのに怠惰であってはならない。

誰にも承認されない存在であるのに承認されなくてはならない。性的であるのに性的であってはならない、不合理ででたらめなのに不合理ででたらめであってはならない……。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元(前)⇒ http://diamond.jp/articles/-/19501?page=3
(後)⇒ http://diamond.jp/articles/-/19501?page=4

 

 

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