佐世保高1 同級生殺害 女子生徒 事件と「猟奇性」の意識の分析
久々に犯罪心理学のテーマでの個別の事件を扱う記事を書きます。今世間で最も衝撃的事件である「佐世保高1殺害」の事件の分析と、「猟奇性」が今回のテーマです。今回のテーマは長くなるので数回に分けて書く予定です。
初回は、今回の事件の報道とその後の専門家の分析などに感じた印象をメインに書きますので、「猟奇性」の詳細な分析は次回以降です。
テレビに出てくる専門家たちは、1つの事件の分析内容が後からコロコロ変わるし、その内容も素人に毛が生えたような内容で、全くアテにならないし、そんな程度のものをネットやテレビで垂れ流すのはご自由ですが、
公的な形で専門家が語るのであれば、まず事実に耳を澄ませることが先で、分析なんてその後でやることではないでしょうか。ほんのちょっとだけの情報を得て「短絡的に頭で組み立てる」ような思い付きの説など、何のリアリティもないし役にも立ちません。
権威や肩書きに慢心するんじゃなく、まずは「同じ位置」で耳を澄ませてみることが研究者・観察者の真摯さだと思いますね。
「真っ当な姿勢・分析力を持つ精神科医・専門家だな」と私が感じたのは、以下に紹介の記事に出てくる分析を「事件前」に明確・正確にして非公開でアクションしたこの方だけででした。
「殺しかねない」と精神科医 長崎県、相談電話放置か 実家を家宅捜索 より引用抜粋
県関係者によると、女子生徒を診察した精神科医が6月10日、相談窓口がある佐世保こども・女性・障害者支援センターに電話で連絡。精神状態の不安定さを懸念し「小学生の時に薬物混入事件を起こし、中学生になって父を殴打した。小動物の解剖をしている。このまま行けば人を殺しかねない」と
相談。対策を求めたが、女子生徒の氏名は明かさなかった。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元 ⇒ http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140731/crm14073117410019-n1.htm
こういう実直な精神科医もいるわけです。ですがこういう実直な仕事人ほどやたらテレビやメディアに出てきて「専門家かく語りき」みたいな「自己主張人」にはならずあまり表に出てこない、残念ながらそういうものですね。
優れた精神科医や心理学者たちが存在することは知っていますが、営業活動・売名活動ばかりしている学者(心理学者・精神科医など)の的外れな分析とか、思い込みの分析は殆どアテになりませんね。
もちろんみながみなそうだという意味ではありません。目立つ場所に現れる優れた人も沢山いるでしょう。ですがそれよりも、一般の人の意見の方が今回はむしろずっとシンプルに的を得ているなぁと感じます。
そして元々直感の鋭い方や、感性の鋭い方、濃厚な実体験のある方なんて、言葉は単純でも遥かに深く正確に見抜いていますね。この手の領域・分野に関しては科学者、専門家は、意外にアテになりません。
ただ、病理の複雑な構造を詳細に見ていく場合は、専門知識は役に立ちますので、この分野自体がダメとか、そういうことを言うつもりはありません。能力・適正・姿勢に個人差があり過ぎる、という意味です。
テレビなどの公共メディアで専門家を使う時は、その「影響力」を考慮し、もっと「真っ当なプロの姿勢を持っていて適性の高い優れた専門家」を「メイン」で使ってほしいです。
そういう優れた人ほど、「事件」が起きて「まだ情報も少ない時点」では、安易に短絡的に分析してメディアで世間に広く公開したりとかしないものです。そういう人よりもむしろ一般人の素人たちの中に、初期分析と直感に関して鋭い人が多くいます。
なので「肩書き・権威の専門知識だけの人」の意見よりは、複数の素人・現場の意見や、その分野とは異なる専門家の情報の方がためになることが多いし、「核心に触れるもの」が発見できたりします。
テレビ離れが起きる原因のひとつは、そういう「核心に触れるもの」がない、「利権絡みの情報操作」や「大衆ウケを意識した感情的・短絡的な偏向報道」のせいでもあるでしょう。
事件のニュースをはじめて見たときの印象
事件のニュースをはじめて見たとき「これは特殊な動機に突き動かされた、先天的な気質と機能異常が絡んだタイプの猟奇的な快楽殺人だ」と、すぐ直感しましたが、
同時にこうも感じました、結果的な到達地点は猟奇的な快楽殺人であっても、この女子生徒は本来は「初期対応」でまだ救える可能性が高かかったタイプだと感じたんですね。(詳細は次回に書きます。)
「中学生の頃から、人を弑してみたいという欲求があった」「ネコを解剖したことがあり、人間でもやってみたくなった」と、女子生徒は語りました。
まぁそのくらいの特殊な意識でなければ、仲の良い友人をあんな恐ろしい殺し方は通常出来ない、という「ヒトの自然感覚」が基本であることが大事ですが、被害者も加害者もその周囲の人も誰一人救われない、そしてどうしようもない、あまりにもむごい、悲しく異常な事件です。
心理学者・精神科医・専門家という人たち
「心理学者・精神科医・専門家という人たち」というテーマに関連する記事は、今まで何度か書きましたが、人間の心理など、心理学者・精神科医・学者・専門家じゃなくても本来わかるものです。
私は医者・医療関係者の多い家系で育ち、当然周囲には専門家・学者関係者も多いので、実体験としてそれがよくわかるんですね。
人の心が理解できてるか?っていえば、むしろ、通常の人よりも「自他」双方への本当の意味での理解が足りないんじゃないの?って感じることもよくあります。
本来、感性・知性を共に高め、両者がバランスしている時、人はみな心理学者以上に正確に対象を捉えています。その角度や深さは相対的であり、個の能力の限界に条件づけられてはいても、その人の目線はブレてはいません。
それは「ある角度から見た事実の断片」なのです。なので、そういう「ブレてないそれぞれの人々の多角的な視野」を集合知として結集し、「見つめられたもの」と「見落とされたもの」を理解することで、認識を深め広げることが可能になります。
専門家の意見というもの集合知の1部分であり「ひとつの角度」に過ぎないものであり、絶対でもなければ「それが全て」というものでもありません。特に分析対象が「心・精神」のような「目には見えない複合的で動的なもの」を扱う場合はその姿勢が大事です。
「部分に全体を還元できない、それ全体で一つであるもの」を、短絡的な理論的な結論で断定することは、かえって大きな悲劇や見落としを生むことさえあります。
他の科学分野のように、実験による検証と理論的整合でキッチリと解明・定義しうるような物質的・物理的・観念的な対象を扱っているわけではないからです。
そして人は、人の心を知る力・感性の潜在能力を持っています。専門用語とか知識とか肩書きで簡単に誤魔化されないでくださいね。
知的に優秀な専門家は沢山いても、「見落とし」もあります。 しかも「権威のプライド」が邪魔してるときは、かえって独断的・独善的になりやすく、一般の方よりも頭が固く、多角的な理解力が不足することさえあります。
そんな姿では、「学者」といいつつも「学びのない者」の姿でしょう。一般の人は、「自身の感性・思考を研ぎ澄まして調和させていけばそれで十分」であり、あまりこの分野の学者・専門家を過剰に盲信するのはやめた方がよいと思いますね。
ですが、現象を詳細に分析し、概念化した形で捉え、それをまとめ整理して伝えるには、データや専門知識は確かに役に立つので、専門家や学者の意見も必要であり、決して全てが無意味ということではありません。
そういう意味で、次回は直感・感性的な主観的な対象分析だけでなく、統計データや科学的実験データ・専門知識も使いながらこのテーマの続きの記事を書きますね。