変人と普通さ
人間は現在もっているものの総和ではなく、彼がまだもっていないもの、これからもちうるものの合計である。(サルトル)
SNSなどでみられる「善悪二元論的な攻撃的で自己防衛過剰な心」は、多くの場合「ただ他者・現象への過剰な囚われとその反応が過剰な状態」でしかなく、それ自体は「全く非個性的」ともいえます。
変人でも珍獣でもなく、むしろ「過剰に常識的、規範的な真面目人」が、「型にハマった共感パターン、型にハマりすぎた感情パターン」を理屈を前面に添えて繰り返すだけの無個性な応答の姿、ということです。
そして「イキってるだけのやんちゃ」がガチの不良にあこがれたりする現象と同様に、「変人と言われたがる人」ほど、「過剰に常識的、規範的」な「真面目さ」の反動でしかないことが観察されます。
本当にワルだった人ほど、自分からそれを語らず、むしろそれを隠すことも多いのは、本当にワルであることを生きた者ゆえの、負の現実の生々しさを知っているからでもあります。
私は「変人、珍獣」を数多く見てきましたが、○○大学的な権威性のある文化の型にハマった変人ほど、「過剰にマトモ」、「過剰に真面目・優等生」ゆえの反動形成でしかないことも多く、
権威性のある文化的な枠の中での、安全なゆらぎの解放でしかなく、それは多くの場合、個性的なものではなく、イキモノそれそのものの特殊さではなかった。
「イキモノそれそのものの特殊さ」は、権威からもはみ出していく野生のゆらぎであり、独自の中心性をもっている。
いつの世も、偽物ほど声が大きく「そう見られたがる」。自称ブッタや自称神のような人間を見るまでもなく、極身近な極普通の人すらそうなのだ、という現象を観察していればよくわかることなんですね。
しかしこのような者たちほど、「特殊さ」「変わった個性」を主張したがり、「そう見られる」ことを好んでいた。「目立ちたがりの型にハマったゆらぎ方」こそ、私には最も非個性的で「マトモ、真面目、普通」そのものに見えた、
そして「極端が常態」である場合も、それは「自他境界が曖昧なゆえに、内心をだらしなく駄々洩れ的にぶしつけに開放しているだけの押し付けがましい表現の在り方」を、
「個性、変人」あるいは「正直さ、人の良さ」などと上位に価値変換して自己正当化する人も多かった。しかし本人は「上位」に変換しているつもりでも、実際の変人の生はそんなものではない。
変人、珍獣もワルと同様にその根は「野生」の側に属する。
生真面目なマトモ人やインテリの逆張り的なひねくれた自己主張、あるいは「自他境界が曖昧でブレやすいだけの人」のような、複雑化した社会的構築物ではないである。
いやそんな勘違い人よりむしろ、順張りの「素直な普通の人」の方が、見た目が単に「儀礼的」で単純なだけであって、
それは一見すると同じ型でしかないペルソナではあっても、その背後にあるものは非常に個性的であるということが多かった。
インテリというのは、真の革命家ではない。暗殺者になるくらいが関の山だ。(サルトル)
変人は場所や教育に先立ち、学校以前、特定の場以前に存在し、どこにいようが変人として扱われ変人として育つ。
変人はどうやっても社会の板につかない、儀礼もアイデンティティも、何か社会の根本的とされる何かが彼・彼女においては全てすり抜けてしまう、生まれ持っての独自性があるのである。
彼・彼女は世界に対して立ち止まらず、「何者かにになる」という完結もしないし、まして「変人になりたい、そう思われたい」など思ってすらいない無意識の心なのである。
自意識よりも先に「どこにも所属しない何か」が強烈に在り、無意識的に社会に対して無所属的である、というだけの姿に対し、社会の側から一方的に「変人」と決めつけイメージを固定されるのである。
なので普通人とは違う意味で、「変人」と言われることに違和感を覚え、内心では腹を立てている場合すらあるのである。
人生を潰されても、闇に堕ちても、成功しても、変人は常に独特の変人性を発揮するため、神的でも魔的でも裕福でも貧乏でもモテてもモテなくても個性的、独創的である。
組織に存在しても個人であっても変人は個性的であり続け、また変人は心・精神の病に落ちても尚且つ、いやさらに独創的になる(笑)
本当の個性とは承認以前にあり、変えられない。疑似個性には他者による承認が必要である。何故なら「元々ないもの」だからである。
疑似個性は個性ではなく、「何かを自分のアイデンティティにしたい」、「一般とは異なる特別な他者でありたい」という理想への欲求である。
「どうどう?私変わってるでしょ?特殊でしょ?人と違でしょ?」と承認されたがる、「過剰に普通・マトモ過ぎる人々」。「判で押したような普通ステレオタイプを無個性だとバカにする判で押したような変人ステレオタイプ」。
そして「普通人の金太郎飴」より見た目は派手だったり毒性を漂わせていたところで、味わえば全く同じ味な「変人の金太郎飴」。それは無駄に変形、逸脱させたがる「意識的な主張」の自意識過剰な滑稽さ。
だがそれは私の「変人基準」からみた時、「最もつまらない人間」という意味と同義である(笑)
しかしこれはあくまでも「変人基準」では「つまらない人間」ということであって、基準が変わればそうではない。
「過剰にマトモ・過剰に真面目」であるゆえに、「キチンとした常識人」として信頼できる安定した表現体として役に立つ、という意味では長所でもあり、もちろん悪い人でもない。
「本物の変人」であるほど深く絶望的な排除、疎外の経験を持ち、本物のワルに似た、ある種の「普通さ」への憧れががある、という人もいる。
変人の天才は特殊過ぎるゆえの孤独さと疎外感ゆえに、逆に普通の人のバランスと幸せに憧れることもある。
しかし「優等生の秀才」は「過剰にまともで真面目」であるゆえに、「凡庸にまもとでそこそこ真面目な普通の人」を見下し、
逆に「特殊さ」に憧れるゆえに天才・変人に憧れる、という感じに、人間はないものねだりする。
変人は自己嫌悪に陥っていたり苦悩する者も多く、捉え方も反応も独特である。
そして「普通」を目指して過剰に努力すると「面白味のない微妙な人」になって、まずまず適応は出来るようにはなったがゆえに、「絶妙なまでに居心地の悪い対人関係」の機会を増やす皮肉な結果になる例もある。
特別天然記念物、絶滅危惧種レベルの「珍獣」に至ってはさらに揺らぎが大きいので、反応も表現も常識から大きく外れることもしばしばあるが、
しかしここまでくると、「絶滅か生存か」しか道がなく、覚悟が決まる。存在自体が究極のオリジナル&マイペースでしか生きられないので、環境設定さえ出来れば意外に満足度の高い人生にもなるのである。