「老子」の言葉と それを我田引水で使う人々

 

 

「老子の言葉」は、一部の宗教関係者、政治屋等から最も遠い本質を持つ意味深い言葉だと思います。彼らが我田引水的に老子の言葉を「教えの盾」にして使うことがよく見受けられますが、

 

自らが煎じて飲むべしですね。老子が今生きていたら(老子が実在したのかどうかは不明ですが。)、彼らのような在り方の人間など真っ先に否定されたことでしょうから。それは釈迦やキリスト本人がもし生きていた場合も同じでしょう。

 

「私はそんなことは説いてないし、私が死んだ後で勝手に作成したもの真実となって、それを元に色々やって、それを全て私の意志のように偽造するのはいい加減やめてほしい」と、本人が一番がっかりして、驚くんじゃないでしょうか?

 

私は自己肥大した人間の教祖人格神を否定することはあっても、「万物の原理としての神性の働きとも形容したくなるような法則性そのもの」を否定しているのではありません。

 

またオカルト的なものや宗教的なものを全否定しているわけでもありませんし、老子の語るような「高い徳の持ち主」という存在の在り方を否定していません。

 

単独の個人としてそれに近い人なら何人か見たことはあります。そういう人に逢うと、そこに一切の議論も必要なく、威嚇も尊大さもなく、権威も地位肩書きも経済力も関係なく、ただ自然に心から頭が下がります。

 

そして彼らは聖者・賢者・有識者ぶることもせず、禁欲・清貧を気取らず、精神的にも物質的にも優劣の見栄を張らず、本当にシンプルに極普通に、力を持たず持ちたがらず、威張らず、ただ優しく大らかに人間らしく自然体で凡夫を生きています。

 

アインシュタインは、 「存在するものの秩序  ある調和の中に自らすスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる人格ある神は信じない」とも語っており、「現代科学にかけているものを補うものがあるとすればそれは仏教である。」ともアインシュタインは語っていますが、

 

スピノザのいう神や、釈迦の悟りの本質だけを見るならば、私もそう思います。

 

後世にあまりにも余計なものが大量に追加され過ぎて本質が見えにくいですが、釈迦の悟り自体は非常にシンプルです。釈迦の悟り自体には何かへの信仰はなく、依存はないんですね。

 

私は仏教・道教の信者ではなく、後世の教えなどは一部を除き多くは否定していますが、老子と釈迦の教えのシンプルな本質そのものは否定していません。

 

以下の3つの老子の言葉、カルト系新興宗教の教祖・幹部連中や、自己肥大しているスピ系のマスターや傲慢・強欲な霊能者達に煎じて飲ませたいです。

 

 

ico05-005 聖人はその身を退けて身先んじ、その身を外にして身存す

聖人は、自分から先に立たないので、かえって人から立てられる。 自分を度外視してかかるので、かえって人から重んじられる。

 

ico05-005 天の道は、利して害せず、人の道は、為(な)して争わず

天の道は万物に恩恵を与えるだけで害を加えることはない。人の道は、与えられた責任を果たしながら人と争うことはしない。

 

ico05-005 生(しょう)じて有せず、長じて宰(さい)せず、これを玄徳と謂う

生むけれども所有せず、育てるけれども支配しない、これを玄徳という。

 

 

以下の二つの言葉は、顕在化した目に見える存在と、潜在的な目に見えない力学をシンプルに表していますね。意識と無意識の関係性もよく表しています。

 

また「善悪」というものは精神によって相対化され区分けされた「無意識全体の分割・定義」であり、「それ自体で存在するものではない部分」に過ぎません。

 

光も闇も人の精神活動が人為的に分裂化させただけであり、善は悪に依存し、悪は善に依存して存在するだけであり、「それ自体で独立して存在する対象」ではありません。

 

 

ico05-005 有の以って利をなすは、無の以って用をなせばなり

「有」が「有」として成り立つのは、その裏に「無」の働きがあるからだ。

 

ico05-005 唯(い)と呵(あ)と、その相去ること幾何(いくばく)ぞ、美悪と、その相去ること何若(いかん)

“ハイ”と“ウン”とに、どれほどの違いがあるというのか、善と悪とに、どれほどの違いがあるというのか。

 

 

以下の三つの言葉は理屈やタテマエの正論を盾に上から目線で押しつけがましい議論・主張・指示・啓蒙ばかりをする政治家や権力者、教養人に煎じて飲ませたいですね。

 

 

ico05-005 聖を絶ち智を棄つれば、民利(みんり)百倍す、 仁を絶ち義を棄つれば、民、孝慈(こうじ)に復す、 巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし

才智をひけらかさなければ、人民の生活は安定する。 仁義をふりまわなければ、人民は道徳意識をとりもどす。 利益の追求に走らなければ、盗みをはたらく者はいなくなる。

 

ico05-005 大国を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若(ごと)しを治めるのは小魚を煮るようなものである。

できるだけ干渉を控えて、民間の活力にまかせるのが理想である。

 

ico05-005 天の道は、余りあるを損じて足らざるを益(ま)す

天の道というものは、余裕のある者からは減らし、足りない者には増やしてやるものだ。

 

老子の言葉は下記サイトから引用させていただきました。

http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/roshi/roshi_d.htm

 

 

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