無形の知と共に生きる
今回は、前回同様に最近感じたことなどを含めた雑感的な記事です。
社会のシステムや様々な組織・コミュニティーの在り方に大小の問題があることは言うまでもないことですが、そういうマクロなレベルのことは過去にもたくさん書いてきたので、ミクロなレベル、個人の在り方にテーマを戻します。
愛とか幸福というのは思考や観念ではなく「状態そのもの」から生じるもので、そして「状態」は生身の「行動」や「実践」「経験」による感性的な理解によって生まれ、頭だけで考察して獲得するものではないんですね。
それぞれの立ち位置からシッカリと自身の人生を創っていくのに「万人に合う一律の方法」などないし、そんな「他者に用意された唯一の方法」など求めない方がよいでしょう。
そして私の周囲の有能な成功者タイプの人も含めて、過去に出会ってきた人々はブログなどしていないし、まぁネットに詳細な個人体験や主張など一切書かかないで一生を過ごす人のほうが世の中多いわけです。
ですが凄い能力とか経験知・生きた知識を持っている人も沢山いて、そういうものを生身で感じながら、理屈・理論が「先」になくても「今・現在」の中で工夫し試行錯誤しながら楽しく生きていけます。
それは私にとってはどんな本やネット情報よりも役に立つ生きた知です。ですがそういう質の「知」は言語・文字では伝えられませんし、得ることも出来ません。どれだけ本を読んでも無理です。
出来るだけ楽に努力なしで無償でおいしいとこだけクレクレさんみたいな人とか、「誰かに方法を教えてもらうことにスグ頼る人」は、自分自身に本当に合う方法を本気で探し出す力を失うんですね。
自分でも試行錯誤や実践をしながら人に頼るのは全然良いんですが、「与えられるのが当然」みたいな、そんな「有限な人の時間やエネルギーを自身のために無償で最大限に使って当然」みたいな、世の中を舐めてるような人はやっぱり変われませんね。
「何がよくて何がつまらないとかばかりの評論家」はあまり好きではないです。本当に博学ならその範囲では認めはしますが。
とはいえ、飽くなき探求心や概念の整理と検証から沢山の本も読んではいるわけですが、先にそこから入るのは好きじゃない、という意味ですね。
特に、人生とか社会とか価値とか正しさとか、そういう複合的・多元的で抽象性の高い相対的な領域に関しては、自分と価値観の異なる様々な人々の具体的な立体的な姿をたくさん見て感じ、
そして「あなたとは全く異なる者」も「あなたと同等の人間である」ことを「認める」ことをベースにしたほうがよいと感じますね。
科学や明確な定義の思考領域内では答えは一つかもしれませんが、「答え= 真実」とするなら、それは決して一つではなく、様々な試みの数だけ、そして様々な眼差しの数だけ、「多元的な発見・真実・答え」があるからです。
そしてこれも大事ですが、欲も欲求もそれ自体は決して悪いものでも汚いものでもありません。
私はむしろ『自身は欲なく潔癖であるみたいにアピールしながら他者にそれを押し付けつつ他者の欲を責める、そんなねじ曲がった「欲」』のほうがはるかにタチわるいと思います。
犯罪とか人格異常とかカルトとか病的なものでないなら、「欲」は全然OK、むしろ偽らずに素直に欲をもって生きている人の方がずっと健全で自然な心の力を感じます。
そういう人の方がひねくれてなく自然で素直だから、まぁ最初は多少粗が目立っていたり、何度か失敗はあっても、段々と成熟しその人なりのバランスや味が出て来るものです。
完璧でなくても天才でなくても深くなくても高くなくても全然OK! 薄っぺらでもOK! バカで青臭くてきれいごと言ってってもOK!
そしてジョブスのようにアグレッシブで豪快でもOK!ムヒカさんみたいなのも全然OK!
どこかが不十分だったり愚かだったり凸凹があったり波があったり不格好だったり、ちょっぴり偽善っぽい部分などを見て人をスグに全否定的に責めるような人は、
「自身をそうした嫌な誰か」と同様に、ヒトの自己実現や可能性や成長を見守れずに潰して束縛を強めるだけの、そんなひとりの「嫌な毒オトナ」なんですよね。そんな人が親になれば「毒親」そのものでしょう。
『 情報かき集めただけで世間や社会を知った気になっている無知で無能なままの「賢いつもりの」批判者 』よりも、
私は行動的に現実で突き進むリアル人間のカッコ悪さが好きです。そういう人が基本キャラは引き継ぎながらも、だんだん自然に成長し変化していく姿が好きです。
ですが心が閉じてて知ったつもりの自己完結さんであるなら、「自分が好きなものと嫌なものだけ」が目に付くでしょう。
それはその人の心の状態のそのままの投影に過ぎませんが、そういう姿勢のヒトは選別作業ばっかりやってて、見たいものしか見えなくなるだけでなく、「相手・現象」もあなたに全てを見せなくなります。
あなたが相手を見ようとしないで「一部だけを全体にして決めつけている」ことを感じとるからです。
そういう在り方で在る時、心は本当の意味で対象と関われないんですね、仮に表面だけ合わせて振る舞っていたとしても。
「あれもこれもつまらん、あれもこれもニセモノ」そして「社会はつまらん」..まぁそういう部分は部分としてはあっても、それは全体ではありません。
ですがそういうことばっかり言ってる人には、どんどんそういう面のみが印象として凝縮されていきます。
そしてそのようなタイプの人に会うと、「心に力を感じない人」「現在」への柔軟な理解力・対応力もない人が多いんですね。
存在への嫌悪や排他的な否定性は、一見すると力強い感じはするのですが、実際は「場」の活力を分離し、その流れやゆらぎを停滞させたり不調和にし、
結果的に全体の生命力を失わせているだけの不毛な在り方です。彼等・彼女たちに意識を合わせると、とても無機的で虚無なリズムが漂っています。
あるいは何かをえぐるように、あるいは嫌味たっぷりに過激に否定するだけの姿が「真実」だと思い込んでいたりします。だから類は友を呼び、同じようなタイプに心休まるのでしょうが、私はそういうものに全く心の力も真実の力も感じません。
極一部の事実が、全体に投影されているだけで、それ以外に感じるものは「他力に期待する主体性なき無気力さ」と、
やり場のない悲しみや怒りや疑念を、「よく知りもしない無関係な誰かや何か」までも巻き込んで当たり散らしているだけなんですね。そんな人が増えているから社会には暗いムードが出てきます。
自分が何も出来ないことを、「至らない人」や何かを未熟なりに頑張っている途上の「責めやすいレベルの人」を責めることで補うような心こそが一番非生産的で、
それこそ「社会をつまらなくする構成要素そのもの」ですね。そういう人が「こんな社会はつまらない」という時は、決まって「お前が一番つまらないんだよ~残念!」ってことです。