中動態と身体性
人は何故幸福になったり不幸になるのか? 何故苦しんだり喜んだりするのか?「公正世界仮説」は過去に書きましたが、このような認知バイアスは大なり小なりよくあるものです。しかしその「質」や極端さは多元的ですね。
「公正世界仮説」は社会心理学において数十年以上前から研究されてきた概念で、特に新しいものではないですが、最近の社会の状況を観ると、このバイアスの強力さというものを感じることがあります。
今回の記事は、「禅・瞑想」のカテゴリですが、過去のテーマの補足の意もあり、同時に、次回のテーマの前段階として書いています。
ではまず一曲、 Fleetwood Macで「 Dreams」、Lanie Gardnerさんのcoverバージョンです♪
「朱に交われは赤くなる」と昔からいうように、バイアスを共有することで共同幻想を強化する共犯関係が生じます。「朱に交われは赤くなる」という意識の同調作用は、実際に脳科学的に生じることでもあり、そして「類は友を呼ぶ」は、心理学的にいえば「類似性の法則」です。
しかし厳密には、バイアスは誰でもあるもので完全にはなくなりません、バイアスというものは「必要」でもあるからです。しかしあまりにバイアスを強化し単純化するとカルト的なものに変質してしまう、ということですね。
「因果」を考える時、「複数の質の異なる因果」が同時に働いている、という視点から見ないと、因果を単純に全否定したり単純に全肯定する、という極端な二元化に向かいます。科学的考察というのは、個々の多元的な因果関係をひとつひとつを丁寧に明確にする作業でもあるでしょう。
それを特定のミームや信仰、バイアスによって「ひとつの因果」に還元してしまうからおかしくなるんですね。「因果を単純化している」のです。
因果は正負のどちらにも揺らぐ動的なものとしてあり、「他者や環境との組み合わせ・タイミング」によって相対的に「果」の良し悪しが決まるゆえに、「誰もがかならずこうなる」、とは決まっていない、というだけのことです。
「それぞれの相対性において」因果関係は動的に成立し、また遺伝のような静的な関係性もある、という多元的なものなのです。「自然界の因果関係」は、自然法則に基づき、規範法則とは異なります。人間の善悪、や価値が基準ではないのです。
しかし人間社会の内側においては、法律や規範(道徳)によって善悪の区分けによって裁かれたりする、という「相対的な因果関係」が成立しますが、それは人間の都合、必要性での社会・関係的な設定でしかないです。
「ひとつの因果に還元してしまう」だけが単純化ではありません、価値判断は「絶対」ではなく、別のミームや価値基準を持つ人から見れば、同じある対象が「悪」にも「善」にもなります。「どのような共同体、時代、文化に属しているか」でも個、対象への評価は異なります。
そこには神やら純粋な公正さは本質的には関係なく、現象を単純化して考えようとするから因果関係がおかしくなる。まぁだからその傾向性が強い人は、カルトのような「極端に単純化された二元論」に騙されてしまうことがあるのでしょう。
中動態と身体性
「<論文>中動態の文法から見えてくるもの –十字架の聖ヨハネの「詩作」から–」 より引用抜粋
門脇佳吉は『道の形而上学―芭蕉・道元・イエス』(岩波書店 1990年)の「序 道をたずねる旅」の中で、カール・ラーナーの言葉を入れて、これまでの西洋思想では身をもって旅する人間を把握できないことを示唆している。
ここから、言葉に表す以前の「主客未分の真実在」「純粋経験」「絶対無の場所」などの西田に始まる京都学派の哲学が、東西思想の対立を超えた共通項を見出すのに役立つのではないかと見ているが、言葉・論理に固執するなら「水と油」の関係から進展しないであろう。
身体的な「行」を欠くと対話の基本が失われ、対象論理だけの神学、実践の伴わない机上の空論に陥り、通底とされる「根源的いのち 11)」に至る共通項は出て来ないのではないか。
また門脇は2013年「西田哲学会大会」における基調講演の「場所だけが聖霊の活(はたら)きを解明し得る」において「西田哲学の場所論」と「キリスト教の聖霊論」の類似性を挙げて西田哲学の「場所論」の重要性を強調している。
さらに、西田の「声なきものの声を聞き、形なきものの形を見る」と「聖霊」を結びつけて類似性を説明している。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
上の論文にありますが、
身体的な「行」を欠くと対話の基本が失われ、対象論理だけの神学、実践の伴わない机上の空論に陥り、通底とされる「根源的いのち 11)」に至る共通項は出て来ないのではないか。
この指摘は、とても大事なものです。これは「芸術」においても「人間」というものへの考察においても同様で、身体性の深まりなしに、本や知識による言語的考察だけを深めていくことに偏ると、知は根源的な力を失います。その「空虚さ」に気づいた若者が増えている、ということです。以下同論文の引用。抜粋です。
キリスト教のみごとに体系化された「教義」は、「中動態」の文法が軽視されたギリシア哲学(ヘレニズム文化)を基盤としているため、主語・述語と明確に言葉に表すことが主となり、東洋・仏教の思想のような非論理的な曖昧な言い回しは一段低いものとしてきた。
このことは同時にキリスト教神秘主義に対する異端審問につながっている。目に見えない「聖霊の働き」は言葉に表す以前の直覚であり、主語・述語の論理だけでは疑念が生じるであろう。現代のグローバル化した地球規模の問題に答えられなくなった欧米思想の行き詰まりはキリスト教の行き詰まりでもある。
中動態の文法から見えてくるもの―十字架の聖ヨハネの「詩作」から―
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こころの空虚さを「言語中心」の教義では埋めることが出来ず、若者の教会離れが加速していると言われる。所謂、「禅」など東洋的な瞑想の世界に憧れる欧米人が増えてきた所以である。21世紀になって、グローバル化された世界は最早単独の宗教では対処できなくなり、「対話」の重要性が叫ばれるようになって「中動態」が見直されてきている。
深い分析ですね、「何故今、欧米で若者がキリスト教、そして教会から離れていくのか?」
それは、人々が「身体性」で直接の関りで対話しながら、それぞれの相対的な現実を通して、「概念以前」の世界との接触を通して「洞察を深めていく」という機会を奪ってきたから、です。
「学び」は相互補完的なものを含みます。この場合は「中動態」という視点から観ることが補完性であり、そしてもう一つは、「身体性」と「共同体」の持つ生命力の喪失、という視点ですね。
「大きな物語性」が精神の支えとしての力を持つのは、「共同幻想」が深く共有されているから力を持つのです。「文化」として共有されているゆえに力を持つ。文化にすらなれないような宗教は力がないのです。
「コミュニティに共有された文化」、「基層のミーム」に支えられた思考体系としての知を学ぶ時、それは個と世界(属する共同体)をより深く繋ぎ、それによって共同体世界内で個人が包摂されるのです。
「地」に根差し、「身体」に根差す文化と共に在る知だからこそ力を持つ。身体に根差さず、文化に根差さず、共同体から外れた異文化の人が、ただ本だけ読んでも、そこには「マナ」が失われているのです。
文化の持つ精神に作用する力というのは、政治・権力的な力とはまた異なります。しかし本場の欧米圏でもそのミームは力を失いつつあります。
報告書によれば、もっとも信仰心が薄いのはチェコで、91%が宗教を持たないと回答。エストニアの80%、スウェーデンの75%、オランダの72%がこれに続く。逆に信仰心が厚いのはポーランドで、82%が自分はカトリック教徒だと答え、宗教を持たないと答えたのは17%にとどまった。
一方、カトリックが主流とされているフランスでは、カトリック信者だと答えたのは23%で、64%が宗教を持たないと回答した。さらに英国国教会(聖公会)の教えを国教とするイギリスでは、同教会への帰属を示した回答者はわずか7%で、70%が無宗教と答えている(エコノミスト誌)。
自然法則と神話的因果関係
「病」というものは人間の苦しみや不幸と密接に関係します。たとえば「遺伝」というものがいかに病気に深く関係するか、そういう「自然法則」の「有無を言わさぬ力」があります。
病人、死者を観ていれば、人の幸福や不幸や喜びや苦しみは、神とか何とかそういうことではなく、社会・環境要因を含む因果の多元性、そしてヒトいう生き物が存在し、自然の法則で生老病死へと向かうという事実性、その複雑系とゆらぎによって生じているだけ。
しかしちょっと昔に遡ってみても、人は神話的な因果関係に強く支配されていたのです。人々が支配的な物語を脱構築していったのは本当にまだ最近の出来事、ともいえるでしょう。
「祟り」として恐れられた風土病「土佐のほっぱん」や「小島のバク」、人々はそれをただ恐れ忌み嫌う以外に何も出来なかった。しかし日本の寄生虫学者の佐々學氏は、その因果関係を正確に観ることで、「小島のバク」はマレー糸状虫症、「土佐のほっぱん」はダニ(ツツガムシ)によって媒介される感染症であることを突き止めました。
そして「ほっぱん」や「バク」という祟りは祓われた、というわけです。それは「正確な原因を知る」ことで正確な対処ができ、それによって祓われたのですね。
医者には病気が治せるが宗教者には治せないのは、「正確な病の因果関係を知っているか知らないか」の違いです。霊能や祈祷が全てにおいてダメ、という意味ではないです。「それ」を「これ」にたいしてやっても意味ないよ、かえって悪くなるよ、というズレを否定したり指摘するだけで、
霊能や祈祷が領域外に境界侵犯したり干渉せずに、その役割内で別の形で人に与えている精神的・文化的作用に対しては私は否定はしないどころか、むしろ肯定してます。
ハンセン病は「業病」といわれて差別されてきました。他にもペストなどの感染症は 「神の怒り」「天罰」など、神の意志によるもの、あるいは悪魔の仕業などと言われてきました。
このように人は、「わからない」という恐怖から様々な物語を信じたり、恐怖に乗じて物語を権威化する方向性へと構築化するのです。
医学にせよ、他の科学にせよ、物事の原因を明らかにし、最善の方法で良い結果に導く、という論理的思考で現実を明確に扱うことで、「原因不明だった時点では神話的・霊的な因果関係だったもの」を超えて、「結果」「現実」を変えることが出来るのです。
ところが精神の病だと「未だよくわからないものが多い」「個人の身体や物理的なもので完結しない複雑な力学が絡んでいる」等で、因果関係が見えにくい、あるいは単純化できない。
そこで、何か思いっきりズレた因果関係で単純化してしまうと、どんどんズレてしまう。ですが最近は、徐々に複雑なものが見え始めていて、それである程度はそういうズレが減ってきている段階なんですね。
そして自然法則は、人間精神の「虚」から生まれる「神」という創造性を超えた、もっと根源的な、「実」としての「創造、維持、破壊」の「無形の現れ」です。それは欧米の若者が捨てた「過去の支配的物語」には到底収まりきらない、「もっと大きな深い未知の領域」でしょう。
再び、『<論文>中動態の文法から見えてくるもの –十字架の聖ヨ ハネの「詩作」から–』の引用・紹介です。
中動態の文法は「出来事が生起している場所」の説明に適していることであると言える。今日の西欧の主語・述語(能動態・受動態)の文法では表現できないものが古代語にはあったということである。
また、國分は「中動態とセットの能動態」と「受動態とセットの能動態」は同じ能動態でありながら全く逆の性質を持つとしている。「中動態とセットの能動態」は「存在としての中動態の非対象的な存在様態が現象して来るリアル」であり、それは言わば「誰の所為(せい=責任)でもない意志」、「個人の責任を問えない、不随意な自由意志」となる。
(この場合の「自由」の主体は「神の意志」とも「存在の意志」ともいえる。無底の意志、不可抗力的な力を指す)。「受動態とセットの能動態」は「個人の責任の原因となっている〈自由意志〉、即ち誰かの所為(せい)であると言い得る随意で〈自由な意志〉または〈個人の責任を問える、随意で自由な意志〉とされる。
「中動態とセットの能動態」は存在中心主義、自然中心主義になり、「受動態とセットの能動態」は個人主義、人間中心主義となるとしている。
自己責任か他者責任か、という責任の概念は、どちらの立場にせよ「受動態とセットの能動態」で現象を捉えている、ということです。そして「自然中心主義」と「人間中心主義」の対立も、単純に価値基準や文脈の違いではなく、「現象」をどの態の組み合わせで捉えているか、という質的差異でもある、ということですね。
文脈云々の違いではなく、「違う態で観る」、というのも捉え方の多元性なのです。
「業」の本来の意味には良し悪しというものはないんです。「熱いものに触れる ⇒ 火傷する、それがカルマ」、私が過去に直接対話したインドの聖人はそう語っていましたが、そのカルマの考え方には「良し悪し」「優劣」などの「価値判断」が含まれていないんですね。
「火傷」は「熱いものに触れた」という「原因」があってその「結果」として生じる、という「事実判断」、それが因果。それを、「良い人なら火傷しない」「悪い人だから火傷した」とするのは、「因」と「果」の事実関係に価値判断を混入し、事実を「己が信じる価値に合うように物語化して捉えている」ということ。
2月11日に ダラムサラ の公邸で行われたダライラマ法王の講演より
ドラッグやアルコールやお金から幸せは得られません。究極の幸せや喜びは、思考によってのみ得られるのです。そして、宗教への信仰心から得られるものでもないのです。
信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。
その点において、釈尊は非常に賢明でした。「私は人々の苦しみを取り除くことはできません。私は人々の否定的な感情を洗い流すこともできません。私は私自身の心の平穏を人々に与えることもできません」。
釈尊は、ご自身の経験を元にした心の平穏を得る方法を、ただお示しになったのです。素晴らしいですね。1人の人間としての釈尊であり、神様ではありません
ダライラマ法王はとても好奇心の強い人で、世界の科学者たちとも積極的に対話します。神仏や宗教的な哲学というのは絶対ではなく、その限界も知っており、宗教的思考体系では到底見えない領域に対して、子供のような素直な好奇心があるのでしょう。
「信仰」というものを頭だけではなく、実践で身体化し体現している人ですが、その次元にあってもさらに自身の宗教的な見地を絶対化せずに「学びたい」という姿勢、本当に探求者ですね。
ダライラマ法王は国を失いました。国家のトップとしてそれは想像を超える苦悩だったでしょう。仏教では国を救えなかった。
以前ダライラマ法王が「生まれ変わったらエンジニアになりたい」という思いを語っているのを読んだことがありますが、宗教では理解できない達成できない領域があることを、法王自身が最も理解しているゆえの願望かもしれませんね。
「不幸」はあっけないほど「単純な因果関係」で生じていることがありますが、それを神とか悪霊とかに還元している人も未だにいます。しかしその「気持ち」も私はわからなくはないのです。
人は、あまりにもあっけない「身も蓋もない事実性」や、逆に「あまりにも複雑で理解できない現象」を、そのまま受け入れることに耐えられないこともあるのです。
人間の運命に神とか悪魔が関わっているという物語は、「現象」の因果関係が曖昧だった時代にはある種「必要なもの」でした。(今でも部分的にはそうでしょう)
「偶然性」を「必然性」に変えたい、そこで物語化することで「形而上的に整合性を保とうとする」、それが「公正世界仮説」であったり、あるいは「神」とか「霊」という絶対基準で物事を説明しようする試みなんですね。そういう「気持ち」は人間としてわかります。それ自体は全く批判されるようなものではありません。
しかし、「物事を単純化する人」の中で、病気とか天変地異とか精神障害等の現象の原因を「祟り」とか「神罰」などの「霊や神」に還元してしまう傾向性が強いタイプの人は、宗教カルト・原理主義に向かう傾向性も潜在的に強いといえるでしょう。
コロナは神罰だ、とか、東北大震災、熊本地震等は神罰だ、神の意志だ、とか、不運な現象を神の意志に還元してしまう人たちですね。
科学は事実と手続きに基づいて要素還元しますが、神を現象の前提にする人は、事実に基づかない主観的思考で結論を導きます、それを宗教的な概念を使って「絶対化する」のが宗教カルトタイプの人です。
これは宗教とは異なる別の思想、社会運動等でも起こりえるし起きています。使っている概念、思考体系が異なるだけで構造は同じ、という意味ですね。そして後者の方が現在では負の作用が強く勢力も大きく、より深刻であるため、今は後者の分析の方に力を入れています。