友情・恋心と悪意・善意の心理  映画「ツナグ」と「僕らをツナグもの」

 

2012年10月に公開された「ツナグ」という映画があります。今日はこの「ツナグ」をテーマに友情・恋心と悪意・善意の心理を考察してみましょう。たった「一人」と、たった「一度」だけ死者との再会を叶えてくれるそれが「ツナグ」です。

 

映画「ツナグ」は一つの人生物語ではなく、複数の人物の人生物語が描かれている作品ですが、特に意味深く微妙な真意が描かれている物語が「第2章」の嵐美砂(橋本愛さん)と御園奈津(大野いとさん)の物語す。

 

「内容を知らない方」は本か動画で見るしかありませんが、先日もテレビで放送されていたので結構多くの方が一度は見たことがあるでしょう。感想で一番解釈が分かれるのは、御園の「道は凍ってなかったよ」という伝言の背景にある心理ですね。

 

嵐は御園が自分の殺意を知っていたのか?ということを確かめたくて、自分をどう思っているのか、そして「そのことを他の誰にも話されないようにす」ために「使者ツナグ」に御園との再会を依頼をするのですが、御園の表情や反応・言葉は微妙で、「本当の心」はどこにあるのかが、見えにくいものになっています。

 

御園の道は凍ってなかったよという伝言の背景にある心理

 

これは様々な感想があるでしょうが、一般的には「嵐」への復讐的な、あるいは決別的な意味を込めた「とどめの一言」という解釈が多いでしょう。

 

その次に多いのが「あれは御園の嵐への許し」だった、というものですが、物語の流れを見る限り、友情・恋愛感情・悪意・善意がすべて込められていると考えるのが自然な感じがします。

 

○「窓に映った御園の幻影」嵐の「罪悪感」の投影

 

御園との会話の場面で、ナイフ果物(青りんご)が出てきます。これは、ナイフ=「刺す・切る」 青りんご=「甘酸っぱい・恋というイメージ、それを象徴的に表しているのだと私は思いますね。

 

彼(歩美)と話すときは御園は1個の青リンゴを胸のあたりに両手で包むようにもっていて、モジモジと手を動かしています。甘酸っぱい思春期の恋心を感じさせます。

 

彼にずっと話したくて言えなかったことを、御園は勇気を振り絞って話します。それは「彼のことが好き」ということを遠まわしに伝える意味の話の「はず」でした。

 

ところが嵐に先に同じことを言われていたと知るのですね。そのために彼には「既に聞いた服の話」で片づけられ、二人は親友だから同じこといっかな?と思われてしまいます。

 

つまり御園は、彼に「好き」という気持ちを伝えきれないままたった一度チャンスを逃し、未練を残したまま彼と永遠の別れを迎えることになります。

 

嵐の話が出てきた時、御園は胸のあたりで両手でもっていた青リンゴを離し、片手にもった状態でテーブルに置きます。表情だけでなく心の変化が起きたことを青リンゴでも表現しているんですね。

 

そして嵐と話すときはナイフを持って青リンゴをむき始めます。そして開口一番、御園は彼の話を始めます。まぁここにも比喩的なものが込められていると私は感じます。

 

ラストのシーンでは少し欠けた一個の青リンゴ」・「ナイフ」・「ゴの皮」・「二切れのリンゴと一本のフォーク」のアップで終わります。この光景から伝わる心的なイメージが以下です。

 

○ 少し欠けた一個の青リンゴ = 御園の未練と恋心

ナイフ = 御園の嵐への復讐

二切れのリンゴと一本のフォーク = 友情

リンゴの皮 = 永遠に消えてしまった御園

 

この物語の感想にはいろいろな意見がありますが道は凍ってなかったよという伝言の背景にある心理の私の解釈は以下です。

 

 

道は凍ってなかったよ」=「知っていたよ嵐。あなたの殺意もしたことも、そして私ことを親友なんて思っていなかったことも、そして何のために私と会いたがたのかも

 

 

 

「つなぐ」のルール上、御園には「今」「たった一度」のチャンスしかない。同じように「二度と会えなくなる状況」で真実のコトバを聞かされることで、嵐にとってもそれは「今・一度のチャンスしかなかったんだ」という現実の重さを味あわせることになる。

 

そうすることで「一回切りしかない機会を潰された気持ちの苦しみ」を身をもって思い知らせることで、二人を対等な心境に置き、

 

同時に、「御園から本当に許され、そしてやり直す機会を永久に失った」という、その事実だけを嵐に理解させることで、「御園の後悔」と「嵐の後悔」を対等な一度切りの現実線上に置いた。そして嵐は、空に消えた御園に向かって嗚咽するようにひたすら謝まるのだった。

 

「僕らをツナグもの」

 

この物語がもし、「マッチョな体育会系の男二人」の話だったら、その解釈も、かなり違ったものになったかもしれません。また、変な例えなのですが、「大阪弁」だったとしたらイメージがかなり変わります。

 

 

 

男(嵐の側)「すまん.. 相手(御園の側)「おう、どうした?」 男(嵐の側)「マジすまん..」 相手(御園の側)「だから、どうした?伝言「道、凍ってなかったぜ

 

何か恨みっぽくなく、友情話にも聞こえてきますね。男の友情なら信じられるが女の友情は微妙、という先入観も、この物語の感想の解釈の違いには含まれているのでしょう。

 

 

 

もし嵐と御園が関西人だったら?

 

嵐「ホンマにごめんな~御園..」  御園「嵐、なんでやねん?」  嵐「ホンマごめん..」  御園「だからなんでやねんって?」 伝言「道な~、凍ってへんかったで~

 

何かこれも恨みっぽくなく、友情にも聞こえてきますね。標準語の固さシビアな響きを増幅しているようにも聞こえます。コトバって使い方や響きで随分と印象が変わりますね(笑)同じ言葉でも、相手にどう解釈されるかは人それぞれです。伝えたいことが全然伝わらなかったり、

 

逆に「そういう意味で言ったのではない意味」に受けとられたり、言葉で失敗したり、逆に言葉で人を感動させたり様々なことが言葉で起こります。ですが、「言葉」が「僕らをツナグもの」のひとつであることは確かです。

 

秦 基博 / 僕らをつなぐもの

 

 

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