泣いて馬謖を斬る 「人間に優しい」とは?

パリピ孔明」のドラマ、結構いい感じですね。向井さんの声がアニメとそっくりです。キャストがいい。KABE太人役の宮世琉弥、ミア西表役の菅原小春、久遠七海役の八木莉可子、この3人が特にお気に入り。

にしても上白石萌歌さんは、「ゴリ押し」とか「英子はこれじゃない感」など賛否両論あるようですが、あの人の声、オーラは普通ではないです。どこにでもありそうな声のようでいて、かなり特殊。技術はともかく、あのゆらぎは身体に響きます。

人は何を求めてドラマやアニメをみるのか? 「パリピ孔明」のドラマの場合、『力を抜いて、笑って見てられるのがいい』『明るい雰囲気で、見てるほうの気分もアガる』というのが視聴者の評価のひとつのようですが、まぁ少し違うけれど大体そういう感じですね私も。

 

向井理『パリピ孔明』視聴率3%台まで下落も……Tverお気に入り数は絶好調のなぜ?  より 引用・抜粋

「若年層に狙いを定めているためか、意外にもTVerでは絶好調で、お気に入り数は10月26日時点で72.1万人。他局の水曜ドラマと比較しても、『相棒 season22』が53.7万人、『コタツがない家』が48.1万人で、『パリピ孔明』が圧勝しています。

コメディドラマということで、『力を抜いて、笑って見てられるのがいい』『明るい雰囲気で、見てるほうの気分もアガる』といった好意的な書き込みも多数みられます」(同)

ちなみに、フジテレビは、看板の月9枠で『ONE DAY~聖夜のから騒ぎ~』(嵐・二宮和也、中谷美紀、大沢たかおのトリプル主演)を放送中だが、こちらも視聴率が5%台まで下がってきており、TVerのお気に入り数は73.2万人。『パリピ孔明』がネットで盛り上がっていることを踏まえると、TVerでは“月9超え”も夢ではないかもしれない。 

引用向井理『パリピ孔明』視聴率3%台まで下落も……Tverお気に入り数は絶好調のなぜ?

 

「KABE太人」対「孔明」のラップ、ドラマもけっこういい感じです。動画はアニメバージョン。

 

今回、「KABE太人」対「孔明」のラップの替え歌として、「Z世代の久能整」対「氷河期世代の孔明」というバージョンを超テキトーに作ってみました。

ところで、「Z世代 久能整」というワードでAI画像生成するとこんなのが出てきました。なかなかラップしそうな雰囲気でKABE太人よりメンタル強そうです。

 

氷河期世代の孔明」ということで画像生成するとこんなのが出てきました。パリピ孔明より表情が厳しいんですね(笑)、「顔つき」は時代が形成する。なんか生存者バイアス強そうで、弱者に対して過酷な自己責任論を語りそうな雰囲気があります。

 

 

「Z世代 久能整」対 「氷河期孔明」 

「青文字」の部分のみ「KABE太人対孔明」のアンサーから引用。

久能 『 オレ 世代はZ 名は久能 日々ずっと苦悩  社会を学べ エセ孔明  老害たちの実害  若者疎外もはや迫害 俺のラップでリメンバー 連覇 アンタを連打 氷河期孔明 もがき絶命 』

孔明 『 私は孔明 氷河期の苦悩を証明 久能の正体 この場で解明 私は聡明 勝つのは自明 整さん、私のラップで頭を整えて差し上げましょう』

久能 『 オレは常々思うんだが お前が氷河期ならオレは全球凍結  お前の思考は自己完結 お前のバイアス オレのバイブスで叩き潰す お前も不遇な境遇 酷い待遇 ありえない冷遇 言い分は理解できるが 俺とお前はイーブンじゃない その手の悲壮と次元が違う 世代間格差  バイブスの格の差 思い知れ 』

孔明 『 ではその言い分をアウフヘーベンいたしましょう 我ら氷河期 就職先を物色 どこからも難色 自己責任で放置 抗えない法治 未来は絶望 希望は戦争 選択肢は二つ 呪縛か自爆  売り手市場のZ世代  ぜったいわからぬこの手の私情 そなたに氷河が救えるか 』

久能 『 呪縛か自爆 ?  孤独な者たちの蟲毒 不幸自慢する奴 既読スルー そっちは「抑圧された非正規」こっちは「去勢された非性器」 「これまでの男たち」の性の充実 「これからの男の子たち」の性の委縮  そっちはBoomerに挫折したdreamer こっちは挫折以前に既にdoomer もはや別次元 家畜化の度合い知覚できるかどうだい?  』

孔明 『 あなたは去勢されたまま終わるのですか? 尾崎豊程度の反抗の歌ですら「人に迷惑をかけている」などと、良い子の模範回答しかできない家畜人生を全うするおつもりですか? 「ち〇ぽ」はついておられるのですか? 出木杉アンサーお断りいたします」

久能 『 俺は常々思うんだが 昭和は剥き出し性器時代 今は令和 石器時代は終わった 去勢が生み出したネオテニー 目つき顔つき感じが良い 性器時代の末裔 目つき顔つき治安が悪い 』

孔明 『 ツルスベ童顔の平たい民よ そなたらは去勢済みの社会性昆虫なのですか? いやそれともラストマン? 「瞬きするネオテニー」とは顔つきが違う我々 どちらが勝つか火を見るより明らかでしょう。 』

久能 『 ちょっと何言ってるかわかんない 時代のレールからもラップのルールからも外れてる性器時代の末裔よ まず韻を踏め ラストマン?お前が言うな 超人にもパーフェクトヒューマンにもなれないリーマンのルサンチマン 打たれ強いだけの苦労自慢 もう我慢ならん 』

孔明 『被害者バトルロワイアルに持ち込んだのはミーではなくユー 盗んだバイクでランしたいハートもわからない去勢された家畜は 良い子の被害者マインドしかナッシング 被害者ランキングでコンピートたいのであればどうぞゴー ホーム ミーが目指すは「ラップ界のルーリード」 ライムで負けてもリリックでリード』

久能 『ラップ界のルーリード?ってお前のそれラップかい?ルー大柴じゃね? 大事なことだから二回言う 韻を踏め!そこ念を押せ! ポッと出のてめぇに何が分かんだ 始まりがあれば終わりがあんだ 団塊バブル氷河期 三世代デストロイヤー だから作って壊すペレストロイカ!! 』

孔明 『 その意気やよし! 「泣いて馬謖を斬る」「切断」する父性 「包摂」する母性 どちらも必要それが現世 社会保障限界でしょう 労働人口減少 もうどう思考検証しても手遅れでしょう それでも 共に見たいと思いませんか?過去ではなく、未来を! 』

久能 みんな知ってる? 泣いて馬謖を切る オレなら仲間 Don’t Kill  あんたに感謝 日々中途半端 ここで気付けなきゃ一生暗夜  やっと出てきたよオレなりのアンサー 高齢者支える代わり映えのない暮らし 声を上げるぜ それがオレの偽りのない新しいCLASSIC

「人間に優しい」とは?

よく人々は「優しさ」について語る。しかしその優しさとは何かの都合で変わる相対的なものだろう。「都合」とは「何かをするときにほかの物事に影響を及ぼす事情」と定義した場合、

たとえば動物愛護を絶対化すれば、それは動物の都合だけをみた優しさになり、人間の都合を無視する。よって人間にとっては優しくないだろう。しかし人間以外の多くの動物にとってはやはり優しい作用を与えるだろう。

最近クマの問題がよくニュースになりますが、こういう問題もほんらいは多義的に解釈されるものですが、ここでも「AかBかどちらか一方」、「A(B)を選択した人間はみな同じ」というような、最近の極端な傾向というか、白黒二元論になっています。

 

↑この感覚ってあまり伝わらないんですよね。「生き物を殺す」ということの多元性、その背景にある思いの多元性。百ぜロ思考の人は、物事が2種類しかなく、どちらか一方なら全部同じカテゴリーみたいになってしまう。

「ナチスは動物愛護に熱心だった」「ヒトラーは菜食主義だった」という歴史的事実を知っていれば、そんなに単純な話ではないくらいわかるでしょう。

そしてスターリン、ポルポト、毛沢東「読書好き」「音楽好き」「肉と魚が好き」で多量の人間を殺しました。つまり「読書好き」「音楽好き」だからといって人間に優しいわけではないし、「菜食主義」だろうが「肉と魚が好き」だろうが関係ない。

このように、疑似相関で理屈づけしてもあまり意味はありません。どっちもどっちになってしまう。

山猫だぶ㌠」というアカウントは、他にも興味深いツィートをしています。二つのツィートの内容を以下にまとめました。

 

アイヌ文化ではクマは神様なのだが、人を襲うクマは悪い神様として扱い、特に人喰いクマはめちゃくちゃな扱いにした。捕らえて殺してもその肉を食うことはなかった。バラバラにしてそこらにほっておいたらしい。

ちなみに、アイヌ文化では神様の居住地と人間の居住地は分かれていて、その緩衝地帯として奥山があった。神様はクマの姿を借りて奥山に降りてくる。これを捕らえて利用することは客を迎えるのと同じであり、善行に近い。捕まえて食ってやるのが功徳で、魂はまた神の領域に帰っていく。

 

とのことですが、やはり「物語」の力というのは凄いですね。平和な時、複雑な問題に直面することもなく上手くいっているときは、物語など不要で合理性だけでなんでもいけそうにも思えますが、

生命の問題、死の問題など、そして犠牲を伴うトロッコ問題、このようなものに直面した時、物語の不在がある種の脆弱性を露にする。物語の喪失による解釈の多様化、そして無限性に向かう知性に対して有限性を与える作用を失ったことで、「私」の理念だけがどこまでも肥大していく。

 

では「ペットは飼わない」とういうスタンスはどうだろうか?それも別の視点で見れば、動物が動物としての生を全うすることを妨げない、という点で動物に優しいともいえるため、ある種の動物愛護の精神の表れともいえるが、

しかし、人間とペットの歴史は古く、たとえばアイヌは、狩猟や漁業などの生活の中で犬とともに暮らしてきた。犬はアイヌの人々にとって、家族や友人、仲間として大切にされ、アイヌの犬は「セタ」と呼ばれ、現在の北海道犬の祖先とされています。

アイヌの犬は、ヒグマやシカなどの獣猟犬として活躍し、人間と同じ食事を分けてもらい、寒い冬には毛皮や布で作った服を着せたり、人間と同じ家の中で暖をとり、寝床も共にしていました。またアイヌの犬は、アイヌの人々の信仰や儀式にも関わっていました。犬はアイヌの神話に登場する動物で、神の使いとして尊敬され、犬は死後も霊として人間を守ってくれると信じられていました。

犬が死ぬと、人間と同じように葬儀を行い、墓を建てて祭っていました。つまり現代の日本とそんなに変わらないわけですね。

古代エジプトでは、猫や犬のほかに、ゾウ、ヒョウ、カバ、ワニ、ヒヒなど、さまざまな動物がペットとして飼われていました。猫は神聖な動物として崇拝されていました。猫は貴族の間で珍重され、権力の象徴としても扱われていました。猫が死ぬと、人間と同じように葬儀を行い、ミイラにして祭っていました。

古代ローマ古代中国でも、犬や猫のほかに、鳥、魚、ウサギなど、さまざまな動物がペットとして飼われていました。世界においてもそんなに変わらない。

「ペットは飼わない」を個人の選択としているのは結構ですが、しかし「ペット反対」という表現を不特定多数の他者に向けて主張すると、それは「ペットを飼うべきではない」というメッセージとなり、一元化された動物愛護精神のひとつになってしまいます。

警察犬や盲導犬を含め、人は動物によって助けられり癒されたりもする。科学の研究においても動物実験が行われている。そして日本・世界を含めて膨大な人々がペットを飼っている状況において、その関係性を「優しくない」と否定するのもまた別の意味で「人間に優しくない」のです。

つまり、動物愛護を訴える人達と「ペット反対」を多くの人々に向けて語る人たちは、「多元的なものを一元化している」という点では似た者同士で、両者ともに(ある面において)人に優しくないともいえるのです。

また動物愛護とはいってもほんとうに全ての動物に優しいのでしょうか? 何だかんだ言ってけっきょく共感ランキングで包摂と排除が分かれています。動物を大事にしている国でも、ゴキブリやムカデやクモや蛾など、嫌いな生き物はめちゃくちゃ殺しまくっているでしょう。命の危険などなく「気持ちが悪い」という理由だけで。

クマはキャラクター化されていて可愛いイメージがあるので死んだら悲しく感じる、だから「殺すな」というだけです。なので「動物愛護」自体がそもそも「人間の都合」です。

「全方位に生き物に優しい」なんて存在しないのと同様に、「全方位に人に優しい」なんて存在しない。「誰もがある面では人や生き物に優しく、ある面では冷たい」という両義性がある、それを認め、自分の都合だけを普遍化して他者に要求しない、ということでしょう。

文革の江青もそうでしたが、スターリンが「自分の気に入らない作曲家や演奏家を弾圧したり、自分の思想に沿った音楽を作るように要求した」ように、「己が正義を絶対化しそれを他者にも課そうと圧力をかける、価値基準・価値判断を一元化し、政治的に現実に行動するような人々」がそうするんです。

「人殺し」も正当化……なぜ「左翼の理想」は過激化したのか?

左翼もファシズムになる可能性があります。左翼が自分たちの理想や目的を絶対化し、他者の意見や価値観を否定し、自分たちと異なる者を敵視し、暴力や弾圧を正当化するようになれば、ファシズムと同じような全体主義的な態度に陥ることがあります。歴史的にも、左翼の政治運動や革命が、ファシズムと似たような独裁やテロや虐殺を引き起こした例は少なくありません。

 

「人間にとっての優しさとは何か?」、たとえば少子高齢化社会の社会保障の問題もそうですが、「老人に優しい」=「人に優しい」とは限らない。その人が高齢者かあるいはそれに近い属性ならば、その優しさは「自分に優しい」だけで人(他者)に優しいわけではないかもしれない。

何故なら「若者の置かれている現実」は見ないのだから。結局、「どちらに視点をおくか、どちらの都合を優先するか」で評価が変わるようなものを「人に優しい」「人に冷たい」と価値判断してるだけ。

マイノリティ運動も同様。「マイノリティに優しい人」=「人に優しい」とは限らない。人権活動家も同様。「人権を一番に掲げている人」が一番人権を大切にしているとは限らない。そういう人がちょくちょく犯罪を犯していたり、人権侵害していたりもする。

うんちくレトリックで自己正当化するインテリは、「何かを否定することで何かを肯定する」という形で「自分(自分たち)アゲ」をするが、それはそっくり同じやり方で否定されることが多い。

党派性に拘ると、インテリ、学者、専門家も雑なロジックですぐに印象操作に走るのは、けっきょく「自分が可愛い」という生物学的な自己保存の法則ゆえでしょう。

まぁそれ自体は多かれ少なかれ誰にでもあるものとはいえるのですが、「全体を見ようとする」ことすらせず、「我が身とその周囲だけが可愛い」という自己防衛から自己正当化ばっかりする姿勢であるなら、「排除された側・利害が対立する側」から反発を受けて価値反転されるのは当然。

またインテリ、学者、専門家がそれをやるときは、非専門・素人よりも権威性を有し知識が多いゆえに「誤魔化し方が高度」ゆえに質が悪いのです。

「言い訳」とか「屁理屈」とかは、わかりやすい浅いものほど害がなく罪がない。『ジャーゴンまぶして権威で箔付けした「言い訳」や「屁理屈」』のほうが実害が大きくなるし、それを使って価値判断することはいずれブーメランになって己が元に帰ってくる。

全員を支えられないトロッコ問題が現実に生じているときどうするか? 今を生きる若者たちの人生を締め付け、さらにのちの子孫たちは地獄の社会環境を生きることを余儀なくされる、そのような選択が「人へのやさしさ」によるものなのか? 自分たちの都合を優先しているだけではないか?ということ。