「闇と無明」 「解像度」という壁

 

禅・瞑想・マインドフルネスのカテゴリー記事の更新です。無意識領域をテーマにしているので、抽象的な比喩、表現も多く含んでいます。

 

ではまず一曲♪ SING LIKE TALKING feat.サラ・オレイン「闇に咲く花 ~The Catastrophe~」

 

 

解像それ自体が「それに触れること」を妨げる。解像度が高かろうが低かろうが、そもそも専門的思考・分析によっては近づけない、全く触れられない、見えてこないものが存在します。

 

そもそもそれはキャリアも専門知も何にも関係ないもの。

 

「近づいた、良く見えるようになった、解像度が高まった」という思い込みとは無関係に、それは「触れられぬもの」としてだ在り続ける。

 

逆にあらゆる解像度を捨て去ったとき、向こうから訪れる偶然性としてそれはふいに現れるが、いかなる表現も不能であり、ただそのようにしてそれは訪れる、ということだけがわかるだけ。

 

「何かを見る」ということの専門的な解像度の深化は、別の多元的な解像度を阻害する。「正しく学んだ者・よく訓練された者」だからこそ「決定的に見えなくなるもの」がある。

 

社会心理学の認知バイアスの中に「専門偏向」がありますが、これは「信念形成の際の認知バイアス」であり、無意識的な傾向です。

 

専門偏向 (Professional deformation)
自分の得意な分野の視点でのみ観察し、他の視点では見ない傾向。「専門バカ偏向」とも言う。引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html

 

ico05-005 嘘とは、私がつくったものではなく、階級に分かれた社会に生まれたものである。だから、私は生まれながら嘘を相続している。(サルトル)

 

「選択と集中」という言葉はよく使われが、これは解釈の範囲を多元化すれば、あらゆるものに対しても生じている。

 

表現が特定の価値基準によって、選択的にゾーニングされるのは客観的にわかりやすいが、価値の多様性を選択的にふるいにかけて排除しながら、均一な支配的価値に一極集中させようとするのは、

 

「人生の多様性がゾーニングされていく」ことでもある、という無自覚な選択と集中が、権威的な圧力によって半無意識的に行われている。

 

考え方、捉え方、思考すらもゾーニングされていくのである。その結果、現象を捉え方が画一化し、切り取り方も均一化され、見えてくる事実の形も価値判断も均一化してくる。

 

市民型ステレオタイプと専門型権威ステレオタイプは、制度や解像度が異なるだけで、事実に対する「選択と集中」が生じていることに変わりはない。

 

専門偏向」と「ナイーブ・リアリズム」のバイアスによって、自身の専門化された解像度と「客観性」への過信が生じる。

 

ナイーブ・リアリズム(Naive realism)
自分だけは他者と違って、外界の現象を認知バイアスに囚われる事なく客観的に見ていると考えるバイアス。引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html

 

知識だけではなくフィールドワークを行って観察していても、「客観そのもの」つまり「見る側」に現象を解像する知的な「前提」が先に条件づけられているため、

 

その前提から見た現象の解像度を高めていくだけである。その前提自体に切り込んでいく場合、解像度は役に立たない。むしろ解像度への信頼それ自体が「見る」を邪魔をする。

 

本当の初体験は、知的な取り組みではない。感性が先にあり、知性は後からそれを分析・解釈するに過ぎない。

 

「思考以前」を知らない場合、数万の読書もその領域の知においては全く「無」でしかない。数億画素で撮影に挑んでも、捉えられない、つまり「その何か」を見ることにおいて解像度は常にゼロのままでしかない。

 

ニンゲンはよく「闇堕ち」などというが、そもそもヒトはグレーな闇&光の複合体であり、真っ白でも真っ黒でもない。

 

「闇」とは、実際には「我は闇に堕ちた」と自覚する者には訪れてなく、「闇の忘却という真っ暗闇に無自覚に逃げ込む 」= 「ダークサイドに堕ちる」、ということなのです。

 

「堕ちていない」と思っている人ほどそこにいる、というパラドックスであり、よって「己が闇性を忘れた正義の戦士」は「ダークサイドの真ん中で正義を叫ぶ」。

 

これは「誰もが闇を持つ」という単純な意味ではなく、陰としての「闇」の部分を意識的に過剰に排除し、陽としての善性だけが肥大した姿は、

 

「無意識に陰陽に揺らいでいる心」よりもずっと破壊的で強い闇を持つ、生み出すのですね。

 

いやもっといえば、ニンゲン意識は闇に堕ちたまさにからその場所から生まれたのであり、ニンゲンはみな闇の子である。禁断の果実、それは「ヒトに闇をもたらしたもの」。

 

では何がヒトに闇をもたらしたのか?それはヒトが概念の光を求めたからである。光はヒトと共にあったにもかかわらず、ヒトは概念の光を求め、そして自らの光を見失った。

 

その結果、虚無の闇が肥大化し、「概念によって生み出され続ける、根源的な恐怖と不安に枠ぐまれた情動」に揺さぶられ続ける「脆弱な分離体」となったニンゲンは、

 

既に「情動がニンゲンの生み出した概念から生まれる」ということも分からなくなっていた。ニンゲンの情動はみな概念によって生成された「変性されたもの」でしかない、ということもわからず、

 

それが根本的な初めからそうある本質的な形だとそう信じている。

 

そして「変性以前にある根源的な情動」のダイナミズムに直接触れて発狂しないように、物語を生み出し続ける以外になくなった。ニンゲンとはそれ自体が分離的で防衛的な葛藤体なのです。

 

それゆえにいつしか幾多の虚構の光の物語を生み出し、さらに自らを無数の物語で二重三重に騙し続けるしかない「夢の中の夢の生」を生きる。

 

「自ら生み出したもの」なのに、自らは「それに動かされた」と思い込むとてつもなく奇妙な虚像体となったのです。

 

そしてニンゲン以前のヒト存在は闇も光も知らない非分離体であり、ヒト存在の情動はニンゲンとは全く異なるものだった。

 

観念に枠ぐまれる以前の情動は、ニンゲンの語る情動とはまるで異質である。ニンゲンはダイレクトにそれを捉えるシンプルさと無垢さを既に多くの人々が失ってしまった。

 

だから現在それを語る人はみな複雑な言語に置き換えてしまった。ひとたびニンゲンがそれについて思考し語るや否やそれは別のものに置き換わる、ましてそれを何百年もやってしまった。

 

その積み上げられた観念体系こそが、巨大すぎる壁となってニンゲンをヒトから深く断絶しているとも知らず、「壁をどんどん厚くしながら壁を取り除こうとする滑稽なニンゲンたちの思考探求」は、

 

自己意識の進歩感とは反比例する形で、「魂の深い忘却」をより強固にもたらした。ただ複雑化だけし、ただ別の言葉で言語で置き換えて思考ているこだけのことを、それそのものを知る方法だと思い込んで。

 

そして「思考によってそのことを知覚できない」ために、「真実を探して三千里状態」になり、

 

「そこにあるのにそれを外部化し、別の何か置き換え続けることで理解できると思い込んでいるから、三千里歩いても三万里歩いても永遠に辿り着かない」という奇妙なパラドックス状態がループする。

 

それは「思考の前」にあるため、「思考で捕えようとすることそれ自体がそれを捉えられなくする」、という永遠のパラドックスに陥るにもかかわらず、ニンゲンは思考ループを外せない。

 

当然だろう、そもそもニンゲンは思考から生まれたのだから、それも仕方のないことなのだろう。

 

それを思考以前の意識で感性的に捉えた時、それが「根源的な闇落ち状態」と呼ぶあの「無明」の正体であるが、ニンゲンはこの根源的なループの元を決して見ないよう自我構造がそうできている。

 

何故なら最初から「ループと共にあることで自らを維持している分離体」だから。