「身体の心と記憶」を科学する デカルトと「群魂」の矛盾
「身体の心」の科学編です。今日は「身体の心」を主に科学で見ていきますね。(明日は感性編を予定しており、「身体の心」を感性で見ていきます。)
今から二十年ほど前に、「生物の心と体」という本を読みました。(※私の記憶に間違いがなければこのタイトルだったと思います。)その本は海外の科学的な本で、あまり人気がなくその後廃刊になっていました。私はその本の内容を今でもよく覚えています。
それは「プラナリア」に関する実験です。「プラナリア」というのは小学校の理科の実験でもよく登場するものなので、おそらく殆どの人はよく知っている生き物でしょう。
なんとなく「スライム」に似た感じのあのシンプルな生き物です。実は当時、プラナリアは脳以外の「細胞記憶」とでも言えるような記憶のメカニズムを持っているといわれていたのですが、
これは、よく精神世界やオカルトで登場する「群魂」という概念の正体というか、「考え方がよく似ている」ものなんですね。
「群魂」という概念は、個ではなく「集団で一つの魂」というような考え方なので正確には違う意味なのですが、「記憶・経験や意識が、個の脳・神経に止まらずに別の場所に保存されていたり共有されたりしている」という点がやや似ているんですね。
※ 「生物の心と体」に書いていたことと大体同じような内容の外部サイト記事を以下↓に参考として紹介していますが、実際のところこのプラナリアの「記憶の転移」に関する実験は、「再現性がなかった」とされ証明はできなかったようです。
何だか夢がなく面白味のない結果ですね、まぁ「記憶」の謎は全て解明されたわけではなく、生命に関することは未だ多くの謎や不思議があることには変わりません。
「記憶は脳の外にある? プラナリアの実験からわかったこと」より引用抜粋
意識や記憶は、すべて「脳」に宿るもの、と思い込んではいないだろうか。プラナリアという日本にもいる虫は、どうやらそうではないらしい。
しかも頭を再生させても「経験値」は記憶しているというから、ますます不思議は深まるばかり。この研究が進めば、アルツハイマーや認知症の治療に応用できるかもしれない。
(中略)
1960年代に行われた研究では、本能的に光を避けるプラナリアでも「光のある場所に餌がある」とトレーニングされた個体は、インプットされた記憶を長期間覚えていることが可能だとされてきた。しかも驚くべきことに、半分に切断後、尻尾から新たな頭部を再生したプラナリアでも、かつてのトレーニングを“覚えている”のだという。
(中略)
新たな頭部を再生したプラナリアは、コントロールと比べて“再トレーニング”で学ぶ速度が格段に早かったのだ。一度ざらついた表面にある餌を食べさせただけで、新たな頭部をもつプラナリアはあたかもトレーニングを思い出したかのように行動した。この結果は、プラナリアの“記憶”は条件反射や感作によるものではなく、中枢神経の関与を示唆していると同時に、記憶は脳だけにとどまらないことを示している。
では、プラナリアはいったいどこから記憶を脳へと“移動させた”のだろう?
研究者らは「記憶は脳の外にもあるのではないか?」と、推測する。もしかしたら脳など関与していなく、このように複雑な情報を保持できる末梢神経があるのかもしれない。
それとも、かつて訓練された末梢神経が再トレーニングにより活性化されたことで、その情報が新たな脳へとインプットされたのだろうか。
答えは末梢神経にはない可能性だってある。近年の遺伝子の研究でも示されているように、学ぶことにより発現した体細胞内の遺伝子が、切断後に変化を含んだ中枢神経を再生し、ひょっとするとこれが“記憶”となるのではないだろうか?
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
プラナリアの研究に関する以下の記事も参考にどうぞ。
⇒ 「再生できるプラナリア」と「再生できないプラナリア」の謎、解明される(京都大学)
植物の記憶
プラナリアは動物ですが、他の生命体、例えば植物の場合はどうでしょうか? とても面白い研究報告がありますね。※東京大学・大学院・総合文化研究科 教授の渡辺 雄一郎氏の研究の一環を以下に引用。
植物は動けないという印象がつよいが、ウイルス感染をめぐる現象の研究の過程で、実に多彩な抵抗性反応を起こす能力を持つこと,環境に対するすばらしい応答能力を持つことを明らかとしてきた。
ウイルスゲノム配列をもったsiRNA、発生制御にかかわるmiRNAがからむRNAサイレンシング機構の解析は、動物分野の研究者とも交流しながら行ってきた。遺伝子発現の分子レベルでの制御機構の解析を通じて,
環境変化を想定したような生物ゲノム中にある遺伝子情報の蓄え、遺伝子発現制御の変化は,植物の体制の維持との関連で、非常に興味深いテーマとしてとらえている。
進化の軸で考えると、おおきな体制の変化を可能にする上でこうした発現制御のシステムは、特定の遺伝子の誕生以上に重要なことが明らかとなりつつある。
引用元 ⇒ http://www.biol.s.u-tokyo.ac.jp/faculty/tchr_list/watanabeyuichiro.shtml
渡辺 雄一郎氏によれば、
「過去6週間の気温」などの外的な条件を植物という組織は統合して判断している、植物には記憶があり遺伝子はそれと関係してる、そして人間の生体リズムと植物には共通のものがある、とのことです。
◇ 関連サイト記事の紹介
そして記憶というのは「事象」を「保存」することであり、記憶は不変的な構造ではなく、コンテクストに応じて可変な断片の集合であるという定義になります。
デカルトの矛盾 「群魂」を科学する
デカルトの「我思う故に我あり」という言葉、それは高度な脳・神経の認知システムを形成した人間、「記憶と言語と大脳新皮質から派生した精神」という心の高次機能に限定された存在論であり、
生命にとってもっと根源的な存在論というものは、ダマシオの言うように「我感じるゆえに我あり」ですね。そしてそれは、人間にとっても根源的な存在論なんです。
だから私はデカルトが間違っているとは思いません。それは部分的にはそのとおりであり、不十分であるというだけです。「我思う故に我あり」「我感じるゆえに我あり」これを同時に内在しているのが人間だと私は思うんですね。
群魂という概念は、「人間だけが個別の魂を持ち、それ以外の動物・植物・などは個別の魂はなく集合的な魂を持つという概念」のことですが、
精神を生み出すには、言語・記憶・高度な脳神経機能が必要です。これを持たない生命は、意識が存在を個別化するために必要な、「知・情・意の三つを統合した精神」を有する自我を顕在化出来ません。
動物にもある種の個別化としての「中心性」を持つ意識は存在していると考えられますが、動物の持つ自我は人間の意識のように統合を必要としていません。動物は大自然の法則の中でありのままに生を表現しているだけだからです。
※人間と動物がどうして自意識を発達させてきたかを神経科学者のアントニオ・ダマシオ氏がシンプルに説明している記事を紹介します。以下リンク先よりどうぞ。
⇒ 自意識の形成
動物とは異なり人間は大自然から独立した高度な社会システムを形成したため、その集団社会の関係性の維持と調和と秩序における必要性から無意識を統合化する必要が出てきただけ、ともいえます。
「人間らしい自我」というものは自然に育つものではなく、人為的・後天的なものであり、
仮に、森に置き捨てられた子供が誰にも教育されず野生動物のように育った場合、その人間に「人間らしい自我」は形成出来ません。人の自我は後天的な教育なしには形成できないのです。
つまり、先天的なものとして「人間の魂が自立的にそれ自体で存在する」という考え方は矛盾するわけです。太古の原始人もまだ現在のように個別化した自我を形成は出来ていなかったのであり、その状態では動物と何ら変わることなく、
種としてのあるいは民族単位としての集合的な無意識を共有していたわけで、個別化の面では未統合な自然自我の状態なわけです。また進化の過程には、サルが人間に進化するという突然変異型の進化の方向性だけでなく、
植物や人間社会のように、基本的に再帰性に支えられてその生態や歴史を作っていきながら、その時々の環境の変化に応じるようにフラクタル構造を変容させていく進化もあるわけで、
それぞれが独自の進化の過程を生きているともいえるでしょう。